我 が 命 尽 き る と も

愛する者たちへ思い残せし事

         

01

平成25年01月01日(火)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新年年頭に当たり家族の健康祈願を行う。 

 私の家系は母方、父方とも癌の血筋で私のすぐ下の妹も数年前に肺癌で亡くなりました、まだ64歳の若さでした。そんな事で何れ私も癌で死んでいかなければ成らないのだろうと思っていました。

 毎年、新年年頭に当たっては「今年もどうか家族一同元気で暮らせるように」と祈願することが恒例になっていました、しかし乍ら癌の発生はあまり予測もできないし、悩んでも仕方の無い事だと一部諦めの気持ちもありました。

 自分の生きてきた一生は、今考えても余り善人として生きて来なかったし、人並みに女遊びもして妻を泣かすことも度々ありました、そんな私でも仕事にだけは恵まれておもしろおかしく生きてきた人生だと自覚しています、70歳代になった現在、若い頃と違って人生に迎えが来ることをそれほど怖いとは思っていませんでした、人はいつかは死んでいきます、悔いの無い充実した人生を送ってこられたのか、それを考えると私は自分の好き勝手に悔いの無い人生を送ってきたと思っています、私の大切な妻は私より8歳年下で、本当によく尽くしてくれてます、何の不満もなく「今年一年家族が健康であります様」祈願して、平成25年度がスタートしました。

 

02 

平成25年04月26日(金)

 

 

 

 

 

 

 

 

 労働基準協会主催の健康診断を受診する。

 毎年のように新年度が始まると、労働基準協会が実施する健康診断を会社の社員は受けている、今年度は癌の腫瘍マーカー試験ができるようになったので、試験的に社長(息子)と私が受けることにした、とりあえず呼吸器系と消化器系のマーカー試験を実施するため採血を行った。

 今年度は社長と私と当社の事務員、弟は硫黄島方面へアマチュア無線の移動に行っていたので参加できなかった、協力会社から2名の参加で、トータル5名が健康診断に参加しました。

 

 

03

平成25年05月17日(金)

佐藤さんの送別食事会を行う。

 四電技術コンサルタントの取締役であった佐藤さんが退職されて、一年近く経つまで送別会をする機械に恵まれなかった、本人は「そんなこと必要ない」と遠慮されていましたがせめて食事会だけでもとお願いして、長い間お世話になった佐藤さんと食事会をする機会に恵まれて、私も息子の社長も喜んで楽しい一日を送ることができた。

 


04

平成25年05月25日(土)

 

 

 

 

 

 

 労働基準協会より健康診断報告書届く。

 本日、健康診断を行った結果表が送られてきた他の人は問題が無かったようであるが、私の報告書の消化器系腫瘍マーカーの値が大きく再検査の必要と書かれていた。
 報告書見た瞬間に「来るものが来た」と思い驚きを隠せなかった、癌の血筋に生まれて気を付けてきた来た積もりであったが、驚きである。

 


05 平成25年05月27日(月)

健康診断結果を岡内先生へ報告する。

 二十年来私の主治医の様にお世話になっている、岡内内科医院の岡内先生に報告書のコビーを見てもらった、マーカーの値が高すぎるので精密検査をしてみようということで日赤徳島病院を紹介していただき05月29日にCT検査を行うことになった。

 

 

06 平成25年05月29日(水)

徳島日赤病院でCT検査を行う。

 検査が終わったが結果の説明は一切してくれなかった、内心やはり結果が芳しく無いのだろうと推察することが出来た、検査担当医から検査内容は岡内先生に一週間以内に送っておきますから、そちらで詳しく聞いてくださいと言われた。

 

 

07 平成25年06月05日(水)

徳島日赤病院での検査結果が岡内先生へ届く。

 四電の橘湾発電所で地耐力検査をしているときに、携帯電話で岡内先生から徳島日赤病院の検査結果が到着したので、今日中に医院へ来て欲しいと連絡があった。
 午後から発注者と息子の建志に説明して、岡内内科医院へ到着した、開口一番に「膵臓に結構大きな膿疱」が有るようだから、膵臓関係の権威である徳島市民病院の三宅先生を紹介するので診断を受けてくださいと言われた。
 家に帰って 妻の洋子に「膵臓」だったと伝えた、聞いた瞬間に妻の大きな目から涙が流れ落ちていた、「何で何であんたが、そんな悪い事してないでしょう」と言いながら顔を膝に付けて泣きじゃくり始めた、「私は一人でこれからよう生きていかん、一人にせんといて」と言いながらまるで子供のように頭を左右に振って泣き続けている、妻の頭を抱えて「まだ死ぬと決まったわけではないよ、泣くなと言ってなだめた」が目を真っ赤に腫らして、その夜は泣き止むことが無かったようだ。

 

 

08 平成25年06月07日(金)

徳島市民病院の三宅先生の診断を受ける。

 岡内先生の紹介で最短で市民病院の三宅先生の診断が受けられることになり、11時30分の予約で私と妻と娘の三人で診察に行った、待合場所では家族ずれで来ている患者が何組も待っていた、私の診察に成ったのは午後四時を回っていた、結構膵臓癌の患者が家族を伴って診察に来ている、ここには悲喜こもごものドラマがあるように思った。

 「三宅先生」の診察では徳島日赤病院の検査データーを見ながら、「まだ発見が早いので手術により癌を摘出することが出来ます」と言ってくれた、膵臓癌の場合は発見が難しく、自覚症状が出て検査する人の半数は手術が不可能な状態に成っていると言われ、私の場合はまだ手術できるだけましかなと変な安心感が出てきた、横で聞いてた妻の顔色が急に良くなってきたと思った。

 手術で摘出することに同意した、手術前に市民病院で、CT検査とMRI検査をもう一度行い、06月21日に最後の総合評価判定をしましょうと言われた、それに私も妻も娘も同意した。

 

 

09 平成25年06月08日(土)

 先日ロータリクラブの浅木さんが梅を1箱持参してくれた、昨年も頂いて梅酒を造っていたので、今回も「酒を造って下さい」と言って笑っていた。
 浅木さんには今までにも色々とお世話に成っていたので、膵臓に癌が発症した事を伝えていました 、本日夕方浅木さんが自宅へ梅の木に生える大きな「霊芝」を2個持参してくれたと妻から聞きました、私は徳島へ出ていて直接はお逢い出来ませんでした、浅木さんは帰りしなに「手術日が決まったら教えて下さい、頑張るように言いに病院へ行きますから」と言って帰って行ったそうです、妻から聞いてその気持ちがとても嬉しかった。

 

 

10 平成25年06月12日(水)

徳島市民病院で膵臓のCT検査を行う。

 今日の検査には娘の玲子ガ会社を休んで付いてきた、「一人で検査出来るよ」と言ったが「ついて行くから」と言って検査の間付いていた、検査が終わると自分が勤めている会社へ出勤していった。

 

 

11 平成25年06月18日(火)

徳島市民病院で膵臓のMRI検査を行う。

 今日の検査には息子の建志が付いてきていた、大げさで恥ずかしいからと言ったがどうも妻からの指示があったらしい、検査が終わると私の車で一緒に帰った。

 

 

12

平成25年06月21日(金)

徳島市民病院「三宅先生」による総合判断

 今日の検査結果の総合評価は「悪性の膵臓癌」という判定になった、直接はっきりと言われたが余り驚く事も無く真摯に総合評価を聞くことができた、妻の洋子と、娘の玲子、会社の社長を引き継いだ息子の建志も同席して一緒に聞いてもらったが家族も余り動揺することなく真剣に黙って聞いているようであった。
 結果的には手術により癌化している部分を切除する手法を執りおこなうと言うことである、06月28日入院し07月02日手術との予定が確定した
私もそれに同意し、家族も同意した、 手術して結果的に命がどれだけあるか、それは解らないが持って生まれて来た、さだめの中で一生懸命に生きる事に努力しようと思う。

 


13 平成25年06月22日(土)

 午前11時妹が嫁いでいた浅田準次郎さん、長男の雅文君と長女の京子ちゃんの3人で見舞いに来てくれた凄く心配している様で有ったが、私の姿を見て準ちゃんは「暗く落ち込んでは居ないんだね」と少し安心したような顔に成っていました、私の直ぐ下の妹が嫁いでいたのだが数年前に肺癌を発症し無くなってしまった、そんな事で家族が癌と告知された時の苦しさや悲しさを経験して熟知しているのだ、元気になってお礼に伺い妹の墓前にも報告出来るよう頑張りたい、1時間ほど色々話をして帰って行きました。 

 

 今日は午後から俳句の「鮎の会」の津乃峰支部の句会である、主宰の元木先生も私の病気の事を気に掛けてくれていて、「未だ入院していないのか、大丈夫なのか」と気を使ってくれました、今日提出した私の句は佳作にも、入選にも、特選にも入りませんでした。
 会が終わって部屋を出る時句友の皆さんが「頑張って早く帰ってきてね、又一緒にやりましょう」と言ってくれた、昨年交通事故で長く入院していた大黒さんは、「早く復帰しなかったら病院へ連れに行くからね」と応援してくれた、句友皆さんの気遣いか嬉しかった。

 

 

14 平成25年06月26日(水)

 28日の入院の準備も妻がほとんど用意してくれた、今日はロータリークラブの会長として最後の例会に出席してきました、会員の皆さんにこんな私に良くついてきてくれたことに関して感謝とお礼を述べた。浅木会員が個人的に一年間お世話になりましたと、私に大きな花束を贈ってくれた、元気にこのロータリークラブに帰ってくることができればと、その思いが花束を抱きながら一瞬心をよぎった。

 次第に病院へ入院する日が近づいてきますが手術自体はそれほど恐ろしいとは思わないが、忙しい生活に慣れている自分がじっと養生するだけの2週間に近い病院での生活に慣れて辛抱出来るかどうかが心配である、俳句を作り、詩を書き、HPの更新でもしようかなと今から計画している、私の入院に際してはパソコンは絶対必需品である。

 


15 平成25年06月28日(金)

 今日は徳島市民病院への入院の日である、正午に娘の「玲子」の車に入院の為の準備品を積み込み家族4人でそろって出発した、12時半には病院に到着したが、13時半まで待機する事に成った。

 入院する部屋を選択するに当たって、四人部屋、個室、特別室の3種類から選ぶ事になり、個室を希望したが、個室は現在空いてる部屋が無くて、結果的には特別室に入院するよう決定した、18、000円 /日は堪えるけど家族も気持ちよく了解してくれた。
 部屋に入り待機していると、担当の主治医から今回の手術の概要と問題点について詳しく説明が有りました、手術の概要は全身麻酔で膵臓の約2/3を切除し摘出する事です、手術後早ければ10日〜14日間で退院出来るとの事です、ただ膵臓摘出による合併症の発症も十分考えられるので入院は長く成るかも解らないとの説明が有りました、すべてを先生に任せますと言って手術に同意しました。
  ここまで来ると「俎板の上の鯉」と同じで、後は料理人である主治医の腕にすべてを任す他は無い、家族は説明を聞いて摘出出来ると聞いて安心したのか3人で
羽ノ浦の自宅へ帰って行った。

 

 

 

16 平成25年06月29日(土)

 朝、「三宅先生」が回診に来てくれた「手術まで後二日だけど一生懸命に運動に頑張って下さい」と指示されました、午前10時に9階から階段で地下まで下り又階段を9階まで登り部屋に戻った。
 部屋に戻ると高松の山崎ご夫婦(私の3番目の弟で養子に行っている)が見舞いに来てくれていた、1時間ほど色々と雑談し帰って行った、07月02日の手術には弟だけが来て立ち会うとの事である。

 午前11時過ぎに友人の守宮氏が心配して電話してきてくれた、従兄弟の住瀬氏から聞いたらしい、非常に心配してくれているようだった。

 午後12時過ぎに息子の「建志」が電源用延長ケーブルと必要品を妻から預かって持参してきた、「建志」も口には出さないが、今回の病気では結構私に気を使って居るようだ。

 午後四時、階段の昇降に寄る運動に出かけた、午前と違って9階から地下まで下りて直ぐに途中休憩なしで元の9階まで昇ってくる事ができた、歩数にすれば大したことなかったが、運動量としては可成り大きくきつい運動だと思う。

 今日も大きな問題は無く無事に一日が終わった、明日も又頑張ろう。

 

 

 

17  平成25年06月30日(日) 

 午前08時に「三宅先生」が回診に来てくれた、日曜日なのに驚きました、今日も昨日に続いて異常なしの状態です、しかしながら毎回病院食のまずさには閉口します。

 午前11時頃、私が習っているピアノの先生が手術の後では話出来ないだろうと見舞いに来てくれた、毎週仕事で潰れない限り自宅から1時間掛けて練習に通っていた、少しも上達しない不肖の生徒である、毎週通う1時間の練習が楽しみでした、私が作詞した下手な詞にも一生懸命に曲を着けていただいた、感謝感謝である、先生には病気が発見された時一番に練習を休む様に成るので連絡をしていた先生から励ましのメール貰ったり心配していただいてた、その気持ちがとても嬉しかった、家族以外にも自分の事を心配し支援してくれる人がいると思うと、頑張って生きなくてはと決意を新たにした。

 午後01時頃、昨日に続いて息子の「建志」が妻の「洋子」を載せて病院に来てくれた、妻は「身体の中の悪い部分は早く採って貰おうね」と言いながら少し手術出来る事に安心して落ち着いてきてるようである。
ポロシャツの下に着る下着が欲しかったので持って来てもらった。
 07月02日の手術当日は兄弟を始め沢山病院に来てくれるようで有る、人の情けが身にしむ今日この頃である、もう一つ嬉しかったことを妻から聞いた、ずっと心残りで気にしていた、息子の相手が妻の同級生から紹介して貰えそうと聞いた、死ぬまでに孫の顔が見らればと大いに期待している。

 今日も大過なく一日が終わろうとしている。現在午後08時00分901病室にて。

 

 

18  平成25年07月01日(月)

  午前06時にユニットバスへ湯を張り身体を洗い二日ぶりに髭を剃った、気持ちがすがすがしかった、入院してから便秘気味で丸二日、三日目に成るが未だ出そうにない。

 午前08時「金村先生」が回診に来てくれた「いよいよ明日ですが心配しないよう任せて下さい」と言われた。

午前08時10分「三宅先生」が回診に来てくれた「夕方麻酔医が説明に来られるので病室で待機していて下さい」と言われた。

 午前10時頃、看護師が腹の毛ぞりと臍の垢取りにに来てくれた、臍をほじられるとこそばゆくて一時中止と成った、後で来ますと看護師は笑いながら出て行った。

 正午に玲子が会社へ出勤前に洗濯物を持ってきてくれた、ベットのシーツの乱れを直し、枕を包むタオルを新しいのに取り替えて、又明日と言って会社へ出勤していった。

 

 

 19 平成25年07月02日(火) 

 今日は午前四時に目覚めた、手術することは少しも怖くないし、心配もしていない。

 私が今日最初の手術者で有るらしい、手術の為病室を出るとき心配してロータリークラブの浅木さんが「がんばれよ」と声を掛けてくれた、妻と長女の「玲子」、次男の「建志」、私の妹の旦那「浅田準次郎」さん、息子の「雅文」君、上から三番目の弟養子に行っている「山崎忍」氏、四番目の妹 「環」と旦那の「勝治」さん、五番目の「日下太郎」とその連れ合いの「正子」さん、妻の弟の「渡超得男」さんその妻の「広子」さん、今日は忙しいと思うのだが私の手術の為それぞれが心配して駆けつけてくれた、私は心配そうな顔をした皆さんに笑顔で手を振って病室を出た。

 9病棟の看護師がベットに寝ている私を4階の手術室へ押して運んでくれた、手術室の中はすでに「三宅先生」「金村先生」麻酔担当の二人と後数名の手術着を着た先生が待機していた。

 背骨に点滴用の針をさして麻酔薬を点滴し始めて、一つ、二つ、ここまでは意識があったが、三つ目は記憶になかった、麻酔が効いて眠ったらしい、気がついたときには手術も終わり、2時間ほど経っていた、妻は弟の「山崎」に余りに早く出て来るのは、「手の施しようが無かったのだろう」とベソをかきながら言ってたらしく、後で弟から聞きました、結果は残念ながら妻が予想していた事に近かったです、開腹して膵臓癌を切除しようとしたのらしいですが、小さい転移を見つけたので「三宅先生」「金村先生」が相談の結果、切除をやめて抗癌剤投与の治療を行うと言うことで膵臓癌は切除せずにそのままで有るとの事でした。

 手術後先生より親族への説明を聞いた妻は泣き崩れて顔を上げることが出来なかったと聞きました、先生が「現在はよい抗癌剤があるので心配しないように」と説明しても妻はその間顔を上げずに肩を振るわせて泣いていたとの事です、その頃私は麻酔から覚醒していないので内容は全然知りませんでした、妻の思いを考えると本当にかわいそうな事をしたと反省しています。

 麻酔から覚醒した私の最初の言葉は「腹が減った飯が食いたい」と言うことだったらしいです、「手術の後なのでご飯は駄目」というと「喉が渇いたので水をくれ」と言い「駄目」と言うと「ちょっとで良いから飲ませて」と子供の様に駄々をこねたらしいです。

 

 

 

 20

平成25年07月03日(水) 

 朝目が覚めると、妻の「洋子」が「痛くない」と言いながら頭に冷やしたタオルを当ててくれました、顔を見ると、ただでも大きい目をした妻の目が赤く腫れていました、たぶん意識のない私の看病しながらこれからの将来を考えて泣き続けていたのだろうと想像しました、自分の命がどうなるのか解らない状態で妻に何を言っても慰めには成りませんでした、元気で有れば「大丈夫だよ」と肩を抱いて慰めてやりたいのだが、残念ながら今の私にはいくつものパイプがくっついていて身動き一つ出来ない状態でした。まだ1日目なので手術の後が痛み続けています、元気になって妻を安心させなければ思いました。

 上から四番目の妹の「環」が見舞いに来てくれました、妻に「少し横になったら」と言って気を使っていました

21  平成25年07月04日(木) 

  娘の「玲子」から聞いたと言って「松尾有二」君と嫁さんの「成美」さんが見舞いに来てくれた、この二人は私の初めて仲人した夫婦であり、「成美」さんと「玲子」は私が勤めている岡田組のグループ会社である、岡田企画スイミング事業部で一緒に働いている。

 夫婦仲良く頑張ってくれている事は、お世話させていただいた仲人としてこれほど嬉しいことはない、松尾君も私が土木部長をしている時に入社してきた社員であり何ヶ所かは同じ現場で働いてきた仲である。

 手術二日目に親族以外で初めて見舞いに来てくれた友人であり本当に嬉しかった。

     
     
     
     
     

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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