Qさんの仕事


 

 

 昭和**年4月に工業高校の土木課を卒業し徳島県内の建設会社に就職しました、

父親も母親もすごく喜んでくれましたが戦災復興も終わりに近づきつつあり、

当時は公務員よりも景気の良かった民間会社の方への就職希望が集中していました、

私も例に漏れず民間企業への就職を希望し決定したのです。
 

 駅から汽車通勤で徳島駅まで行きそこから15分ほど歩いてしばらくの間は本社へ通勤していました、

最初にもらった給料は4,500円で汽車通勤の定期代が約1,000円残りの3,000で弁当のおかずと

小遣いに当てていた、その頃のアンパンが1個30円位でした。
 
入社して1月後に京都のカツラエンジンの工場へ技術研修に3ケ月間行かされました、

昭和34年の10月頃から初めて土木の道路改良の現場へ技術員として出してくれることになり、

それは当時建設省が直轄工事で施行していた道路工事を民間業者に初めて発注した現場でした。
 
当時の土木工事の労務者の1日の単価は280円から300円くらいでした、

セメント1袋と工賃がよく似ていておっちゃんが嘆いていた記憶があります、

昭和34年10月初めての現場は、国道11号線鳥ケ丸改良工事であった、

昭和37年頃にその頃陸の孤島のように言われていた椿泊まりの

町中のコンクリート舗装の現場所長で張り切って仕事していました。

 その後県道椿泊〜福井線の椿坂をショートカットする椿坂トンネルの現場を手はじめに、

かちどき橋拡幅工事、木頭村の西宇トンネル、小松島屎尿処理場建設工事、

本四公団の撫養トンネル、鳴門インターチェンジ工事と結構大きな仕事を手がけて

一応土木技術者として人生の大半を過ごすことが出来ました。

 

 

   

昭和34年4月希望に胸弾ませて入社した会社の
当時のコンクリートミキサーおよび資材倉庫。

 
昭和34年7月北の脇海水浴場へ会社の先輩と
一緒に海水浴での記念写真 。
       
   
本社屋上で現場から帰った時に記念撮影をした。
   
天気の時でも土木屋はゴム長に作業服であった。
       
   
藍場町のエッソスタンド建築工事の現場実地指定
で、後ろに見える建物は移設前の徳島市民病院。
   
椿坂トンネル福井側坑口上部の軟弱部
縫い返し補強の状況。
       
   
椿坂トンネル上部半断面切羽休憩の坑夫達
   
椿坂トンネルの上部半断面H型志保工の検査
       
   
昭和42年度かちどき橋拡幅工事現場職員
   
当時の勝ちどき橋を中洲側より望む後方は旧県庁。
   
   
県庁屋上より東警察署等高層ビルは見当たらない。
   
当時のかちどき橋を下流県庁側より望む。
   
   

西宇トンネル現場 左から,日下,尾崎,竹田,井内,

西宇トンネル時代の私と愛車
       
   
昭和44年西宇トンネルの上部判断面掘削支保工の状況
   
西宇トンネル貫通発破の状況-1
       
   
西宇トンネル貫通発破の状況-2
   

西宇トンネル施工時代の竹田君と私。

       
   
榊野木頭村長と東山木沢村長の喜びの握手。
   
西宇トンネル貫通記念
小松島屎尿処理場現場で前列左から小泉,赤沢
後列左から日下,田中,日開各氏

   
昭和59年本四公団撫養トンネルの貫通式場
   
貫通式に於ける当社工事関係者。
       
   
大鳴門橋工事見学記念
   
瀬戸中央道の工事見学記念
       
徳島フォレストGC建設工事

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