「一期一会」 出 会 い と 別 れ

 

     
   
JA5HT、JA5LQとの出会い
 

JA5DOA との出会い

 
「夏っあん」との別れ
 
 

 

「一期一会」

 

 私は戦前というか戦中と言うべきか、昭和15年生まれであります。

私の幼少期は別項でも述べていますように貧乏百姓の子沢山、俗に言う「どん百姓の大家族」、それはそれは貧しい

生活でした、私の家だけでは無くて当時は他の家でも大なり小なり同じような貧しい生活であったと記憶しています。


 しかし、考えてみますと現在のような核家族化も進んでいなかったし、道徳感の衰退も無か
った時代、生きるため

に必死であった時代、何よりも家族間には笑いがあり対話が有った様に思います貧しいながらも家族間には少しでも

裕福に成りたいと思う貧乏に立ち向かう強い気持ちと一体感があり、

家族は裕福に成りたいという共通の目的に強く結ばれていて物質的な豊かさは無かったけれど、精神的には現在よりも

遙かに幸せな時代であったのかも知れません。


 私が小学校へ入学する数年前に父親が中国の戦地から引き揚げて帰ってきました、父親が帰
ってからはそれはそれは

厳しい躾の毎日でした、父親の躾における口癖は「人は生まれてきて一人では絶対に生きては行けない、

社会の中で人々と一緒に成って生活していく、言い換えると世間という大きな組織の一員と成って助け合いながら

生活していくものだ、その組織の最小単位が家族であり、お前たち五人の兄弟だ、その兄弟が仲良く暮らせなくて、

世間という大きな組織の中で生活していけるはずが無い」と常々言われていました。

 そんなことで長男の私は幼い兄弟達の先頭に立って助け合いながら毎日を暮らしていました、そして中学に入学した

時に、父から「人の一生には他人と出会える数には限りがあるように思う、だから自分から出会いを求めて、出会いを

大切に友達を沢山作れ、せっかく出会った友達を失う事が無いような付き合いをするんだ」と

口癖のように言われて育って来ました。


 当時父が良く「一期一会」という言葉を使って五人の兄弟を集めては話をしてくれましたが、
その時は兄弟共に幼くて

大まかな感覚でしか理解出来ていませんでした、後日大きくなって調べてみると元来「一期一会」とは仏教用語であって

「一期」とは人が生まれてから死ぬまでの一生を意味し、「一会」とは主に法要などでの一つ集まりや会合、出会いを

意味しているとの事です、それが茶道に由来する諺となり「貴方とこうして出会っているこの時間は二度とは巡っては

来ないたった一度きりのものです、だからこの一瞬一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」と言う

意味の心使いであり、千の利休の茶道での一番の心得に成ったとも言われています。


 私もこの年齢に成り残り少なくなった自分の人生を振り返ってみると、過ごしてきたその時
々に人との出会いと思い出が

あります、それは悩み苦しんで困っていた時に解決のヒントをくれた人との出会いや、自分の生き方さえも変えてしまう

ほどの刺激を受けた人との出会いなど数えれば限りがありません。


 遠い過去の事と成りましたが今思い出しても当時の事がなんだか楽しくて、そして切ないよ
うな人との出会いであった

と思っています 「一期一会」の心使いは目には見えないけれど、その人が持っているであろう心の中の琴線を響かせる

事が出来れば、自分の持つ琴線と共鳴してお互いにより深い付き合いをする事が出来ると今も信じています。


 そして父親の遺言のように成ってしまった「一期一会」の心使いを大切にして、残された人
生これからも友人を作り続

けて行きたいと思っています。
      
                 平成23年11月1日 アマチュア無線をワッチしながら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親友「平尾さん」との出会い

 

私が工業高校を卒業し建設会社に入社して二年ほど経た頃であったと思います、今は故人と成りました、阿南市の青木産業

の創業者とは卒業した高校は違っていましたが同年生でした、当時青木さんは私の勤める建設会社にトラックの持ち込みで

入り建設資材の運搬を引き受けていました、

ある時その青木さんが同級生の平尾さんを紹介してくれました、それに依り平尾さんとの出会いが出来ました、現在の阿南

商工会議所の平尾会頭です。


 二人が出会ってからは19歳そこそこの二人が意気投合して時間を作っては一緒に遊び、食べて過ごしていました、お互い

それほど裕福では無く育った二人は、そのうちに自分たちの将来の夢とか、これからの日本がどうなっていけば良いのだ

ろうかとか、今の政治はこのままで良いのだろうかとか、逢えば時間を忘れて、今思っても可笑しいほど必死に真剣に話し

合いました。


 実社会に出て自分で働き努力して今よりは少しでも良い生活が出来るように希望を持って頑張っていましたが、いくら

努力して頑張っても急に生活は楽には成らず、それぞれの家庭は決して裕福と言うにはほど遠く貧乏生活が続いていました。
 
その当時二人が将来に抱く夢は、平尾さんは会社を興して社長になること、私は勤めている会社の技術部長になって難しい

工事現場で先頭に立って施工を指導している姿をまぶたに描いて頑張っていました、当時私は土木の世界で生きて行くため

は技術こそ力、技術優先との思い込みで勉強もしていました、東京で行われていた土木の先端技術の研修会にも進んで

会社から参加させてもらっていました、技術を進歩させるためであればお金の事はあまり考えていませんでした、

コストをあまり考えていると視野が狭くなり技術の進歩はあり得ないという考えに凝り固まり、当時としては若かったけれ

も現場の作業員から技術的な相談も良く受けていたこともあり、思い上がった考えを持っていたと思います。


 ある時、平尾さんとその事で意見が食い違って夜が更けるまで論争を続けたことがありました、平尾さんは神崎製紙富岡

工場の機械関係の協力会社へ就職していました、そこで機械修理に伴う技術とコストを自分の将来の為に考えていたらしい

のです、彼はコストを考えない技術開発は技術でないと言うのです、一つの目標があり、それにかける予算があり、それに

う技術が あるというのです、コストが高すぎるならば「お前の技術は使わずに日本中を探せばコストに見合った技術を

持ってくることが出来る」と言い切りました。


 その言葉に当時、私は大きなショックを受けたことを今もまざまざと思い出します、19歳の私にコストを勘案した技術

こそ本当の技術だと悟らせてくれたのは当時の平尾さんでした。


 この出会いこそが私のそれからの技術開発に関する考え方を変えさせてくれたと思っています。長年建設会社に勤めた後

リタイヤして「構造物のお医者さん」と言われる非破壊検査の会社を創立したのも、その考えが底流にあったからだと思っ

おります、平尾さんが商工会議所の会頭をしている現在も同年の親友として交際を続けさせてもらっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

工事主任香田さんとの出会い

 

 昭和38年の終わり頃、私は当時陸の離島と言われていた椿泊への道路改良工事に伴う「椿坂トンネル」の工事現場へ配属の

辞令が下りました。

 トンネル工事の主任技術者として着任しましたが現場代理人をしておられるのは大先輩の土木技術者でまず挨拶に伺うと

その人は阿南出長所長を兼務されており営業活動で忙しいので時々は現場を見に行けるが、君を所長代理として現場を任すか

一つ宜しく頼むと言われました。

 そうは言われても私にはトンネル施工の経験は未だ有りませんでした、しかしその所長は心配する事は無いよ、「発破を掛

けて前に掘り進めば、何時かは山の向こうに出るから」とすまして言いました、そんな簡単なものでは無いだろうと思いました

が上司言う事なので了解し現場へ入りました。

 現場は既に「鏡付け」も終わり底設導坑が10m程掘削され切り羽に支保工を建て込んでいるところでした、発注は徳島県で

工事管理は阿南土木事務所が行っていました、担当者は現在故人と成られました香田さんと言う方でした、

阿南土木事務所の香田主任の処へ着任の挨拶を兼ねて行きました「頼むよ」と一言言われただけでしたが、私は内心経験も無い

しましてや入社五年目で少しの現場は廻って経験しては来ましたが未だ23才の駆け出しのビィピィでしたから大きな声で

「ハイ」とは言えませんでした。

 月に2回行っている香田さんも同席される現場での安全早朝ミーティングに於いて50名近い作業員の前で私の着任の挨拶を

させて貰いました、「トンネル経験の無い新参者ですが宜しくご指導下さい」と私が挨拶すると、暫くして香田さんが「始めは

誰だって経験ないんだよ、トンネル工事の施工経験が有るとか無いとかではなくて、無事に椿坂トンネルが完成するかどうかは

、これから此処で働く全員が家族の様なチームに成ってどれだけ助け合う事が出来るか、君の組織作りの腕にかかって居るのだ

よ」と驚くような返答が有りました、わずか5年足らずの現場経験しか無い私でしたが、今までの現場では工事する作業員と

管理する我々現場監督の間には目に見えな一線が有りました、上司からは「年が若いお前達は作業員になめられないように毅然

としていろ」と何時も言われて来ていたので香田さんのこの発言は大きな驚きでした。

 

 その夜阿南出長所長が街で一席構えて私の着任の歓迎会を開いてくれました、当然香田さんも同席してくれて、香田さんの

考え方や人と成りを少しは知る事が出来たように思いました、香田さんは旧制脇町中学校から予科練に行き終戦を迎えたとの事

でした、座もすすみお互いがうち解けてくると、香田さんが「日下君、私の考え方は少し右寄りなのかも知れない何時も背中に

日の丸を背負って今まで生きて来たんだよ」と言われました。

 一瞬なにを言っているのか理解出来ませんでしたが、香田さんは「私は最後の予科練習生で特攻に出る事は無かったが、沢山

先輩達が特攻機に乗って出撃していくのを見送ってきた、未だ二十歳に満たない若者が国のため日の丸のために二度とは生き

帰ってこられない、死ぬ事が解りながら出撃して行くんだよ、今の日下君より若い連中だよ、考えられるかこの辛さ」と言い

がら目をつむりました。

 香田さんは当時を思い出したのか、何度となく言葉を詰まらせながら私に話し駆けてきました「日下君、私は国の将来を考え、

跡に残る両親や家族の幸せを願って特攻で散っていった、沢山の先輩を思う時、生き残った自分たちが先人の思いを、日の丸を

背中に背負って生きていく業を持って居るんだと思い今まで生きてきたんだ」言いました。

 香田さんはさらに言葉を続けて、現場で働く作業員の多くは今言ったようなかっては国の為に命を懸けて戦い頑張って来た人

だ、「自分は現場監督だからと言って君の父親と変わらない年齢の人達に上から目線でえらそうに指示が出来るだろうか」。

この人達は戦後敗戦の苦しい中から今の日本を此処まで発展させて来たいわば功労者達なのだ、しかしながら人とは不思議な者

、敗戦の混乱から苦労してやつと復興させ日本が少し元気を取り戻してくると、戦中や敗戦の苦しさを知らない若者達に変な

思想がはびこり権利を主張し自分の事だけを考えて、自分が良ければ他人の事は余り考えない、日本人の美徳と言われた家族

制度とか他人への思いやりの心とか、団結心というものが崩れつつあるように思う、私は戦前の思想で有っても忘れてはいけな

い物も有ると思っていると少し寂しそうな顔しながら香田さんは話しを続けました、「だから日下君ここの現場監督達も作業員

に対して尊敬と敬愛の気持ちを持って接して欲しいと思う、そう言う教育をして貰いたいのだ」現場というのは大きい一つの

チームなんだよそこにはチームワークが絶対に必要で、トンネルを完成させるという全員の共通した意識が有って初めて強護な

チームワークが作れるのだ、歳の若い日下君がこれからこのトンネルの完成に向けたチームを作って努力していって欲しい」

と話しをされて一息つきました。

 

 そんな事が有ってからトンネル完成までの期間、私たち現場監督員は作業員に出会った時にはこちらから頭を下げて必ず挨拶

する事を励行し、自分の家族に話すような気持ちで親睦を図っていきました。

 月2回の早朝安全ミーティングでは急坂な峠で道が悪いために椿泊の人達がどんな苦労をしてきたのか、何故このトンネルの

完成が此処の人達の悲願なのか、何故早く完成させる必要が有るのか、このトンネルの完成でどれだけの人達が喜ぶのか、阿南

土木の所長や期成同盟会の会長、婦人会の会長に来て貰って来賓として話しをして貰いました、作業員達もその話に真摯に耳を

傾けてトンネルの必要性や、その作業に参加していると言う一体感と社会に貢献するというプライドを持つ事が出来たようで

した数年が経ちトンネルが完成間近に成った時、下請け会社の世話役が事務所に見えて「私たちは銭を稼ぐ為に働きに来ていま

すが私たちにも銭もうけ以外に人のため社会の為に成っているというプライドが持てるように成り仕事に張り合いが出来て頑張

って居ますわ、皆 所長の作戦に乗ってよう頑張っていますと言いながら事務所を出て行きました。

 私は着任早々香田さんに言われた「現場はチームワーク、強護なチームワークには共通の認識とプライドが必要」と教えられ

事を只実践したに過ぎないと思いました。

 

 トンネルが完成し「通り初め」に参加させて貰った作業員達が地元の小学校の鼓笛隊に続いて小さい小学生達が両手に持った

日の丸の小旗を打ち振って全員がニコニコと喜び一杯に行進してきた時、それを静かに見ていた作業員達が突然一斉に「万歳、

万歳」と大声で叫び始めて「通り初め」の列に飛びこんで行き、まるで我が事のように喜ぶ作業員達の姿を見た時、私も万感胸

迫りこみ上げてくる物が有りました。

 椿坂トンネルの現場で香田さんという工事管理者と出会う事が出来て私に「大きな組織で有っても年齢を超えた共通意識、

共通のプライドを持つ事に拠って沢山の人々が一つの目的に邁進出来るという」現実を教えて貰う事が出来ました。

 この香田さんとの出会いがその後の自分の人生に大きく影響を与えた事は言うまでも有りません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

工藤さんとの出会いと別れ

 

 私が建設会社に入社した当時、土木部の中には三人の年齢の良く似た先輩技術者が色々な現場施工で

切磋琢磨し競争していたと思います、私は入社後6ケ月間資材部で機械の修理を担当していましたので、

何度も工藤所長と言われる先輩所長との出合いが有りました、

時が経ち私も入社後半年であこがれの現場へ出る事が出来ました、その現場は国道の改良工事現場でした、

その当時工藤さんは鳴門市の大麻で鍋川樋門の工事を担当していました。


 此の現場には私を入社当時から大事に指導してくれていた、私と同じ工業高校を卒業して入社していた、

山崎さんと言われる先輩が工藤さんの部下としてついて居ました。

山崎先輩は同じ工業高校の6年先輩です、山崎先輩が私を樋門現場の「一杯会」に良く呼んでくれたので、

所長の工藤さんとも色々と話し合う事が出来るように成りました、「今度現場へ呼んで下さい」と

頼んで居ましたが、その後数年間は現場で一緒する事は有りませんでした。


 昭和37年の3月に私の勤める会社が鳴門市の「新池川ポンプ場の新設工事」を受注しました、

工藤所長から私の居た現場事務所へ電話が掛かり「新池川ポンプ場の新設工事」の現場を手伝って欲しい

との事でした、一も二も無く喜んで工藤所長と現場を持ちたいと上司の土木部長にお願いして、

現場で一緒する事が出来るように成りました。入社後工藤さんと約束して早三年の月日が流れていました、

それでも約束を忘れずに、私を現場へ呼んでくれたことがすごく嬉しくて、

「頑張ろう」と心新たに着任しました。


 この現場は鳴門市大麻町の上流から流れてくる新池川の下流部に汐止ゲートと満潮時に下流の潮位が高くなり

汐止ゲートより上流の水の滞留をポンプに依り排水する施設の新設工事でした。

川の中に施設を作るのですから鋼矢板を使った締め切りを行い、締め切り内の水をポンプで替えだした後、

基礎底版コンクリートを打ち壁を作りスラブを打設し其処に1000mmのポンプ2基を据え付け、

鉄骨製建て屋を建てます。

新池川の締め切りのため在来の堤防から川の方へコ字型に二重に鋼矢板を打ち込み矢板と矢板の間に

砂を入れて締め切りを完了し水替えを行い底版の鉄筋組み立てを来ない底版コンクリートを明日

打設すると言う段取りまで来た時点で、異常潮位に依りボイリングを起こし締め切りの鋼矢板が

吹き飛ばされて水浸しに成ってしまいました。


 丁度現場にいた私は目の前でその状況を見ましたが、シャッターが台風で吹き抜かれるのと同じ様に矢板の

セクション(繋ぎ手)の一カ所が外れるとそこから次々と矢板が水圧に依り吹き飛ばされていきました、

直ちに本社から工事本部長、土木部長が現場に駆けつけましたその現状を見た土木部長は其処に座り込んで

「もうあかんは、これで会社も終わりだ」と呟いていました。

工藤所長は現場の堤防の上に立って腕を組み黙って考え込んでいましたが、

私の顔を見ると寄ってきて「日下君、明日から仮説矢板の引き抜きとクラムセルによる鉄筋の引き上げの

段取りをしてくれ」と何事も無かったようなか顔をして指示してきました、

そして私に言っているのか、自分に言い聞かせているのか解りませんでしたが

「出来てしまった事をいくら悔やんでもどうにもならん、山より大きいイノシシは出ないぞ」

と言いながら事務所の方へ帰って行きました。


 それから工藤所長は毎晩の様に金時芋を作っていた地権者と補償の話を続けていました、

私の方には「心配いらない、仕事の方は指示通り頼む」と言って殆ど任せきり状態になりました。

当時私は22歳の経験未熟な若造でしたから、所長の指示をもらいながらも探り探りの工事でした、

やっと補償も一段落した時に工藤所長が食事に誘ってくれました。

事故の後だからなのか、いかにも安そうな飯屋さんに入って食事を始めました、

工藤所長は酒を飲みながら私に話しかけてきました。

工藤所長は34歳に成っており現役バリバリの所長でしたが、河川工事や樋門工事、トンネル工事を

主として施工してきた経験者でした、そして酒が進んでくると、工藤所長は、

「日下君、若い君たちの時代は過去の経験で施工していくと言うことは、すでに時代遅れで古すぎると想うんだ、

ゼネコン大手の様に理論的計算に依って施工の安全性を検討して作業しないと、大きな事故にも繋がるの

じゃ無いかと時々心配することがあるんだよ」と言いながら杯を口に運び一気に飲み干しました、

当時はパソコンもなく計算するときはタイガーという手回しの機械式計算機で構造解析をしていました、

又仮設に使用する鋼矢板も現在の様にリース業者も無く、徳島県内では私の勤める会社は結構沢山の鋼矢板を

手持ちしていて、他の業者からよく借りに来ていたことを記憶しています。

当時はコンサルタントも無かった時代、それは現場を担当する人の経験と勘で作業してきてたらしい、

そんなことがあって数日経った、ある日工藤所長に呼ばれて事務所へ行くと、所長から3冊の本、

それは「鋼矢板の施工法」に関する参考書籍でした、

「これを参考に日下君が独り立ちして樋門工事をする迄には良く勉強しておけヨ」と工藤所長から手渡されました、

それからは仕事の合間の時間や夜の食事の跡の時間に賢明に勉強しました、やっと工藤所長が指示する専門用語も理解

出来るように成り仕事に励みが出て来ました。

 仮設の締め切り工事から手直しをして無事に高じを仕上げましたが、約1ヶ月間工期がが遅れてしまい利益も当初

予想を大幅に下回る結果で現場が終了しました、工藤所長からはこの現場で責任者としての考え方を教わった気が

しました、口では何も言って教えてはくれませんでしたが、同じ現場で苦労して現場を納めていく工藤所長を、

見ているだけで、現場管理者はこうあるべきと言う思いがひしひしと伝わってきました。

 失敗した現場で失敗の原因究明は当然必要ですが、まずこの現場では何を一番に処理する必要が有るのか、

出来てしまった失敗を何時までもくよくよ考えても現場は前に向いていかない、よほど大きな失敗も

「山より大きい獅子は出ん」の諺の様に心構えをしっかりと持ち素早い現場対応の出来る管理者に成りたいと

思い今後も努力していく様強く思いました。

 何十年も経た今思い出しても笑ってしまうような面白面を持つ所長でした、

工藤所長は「痔」の持病が有りました