青 春 の 想 い 出    成長の記録ー03

             

親方との別れ 海上自衛隊徳島基地 二十歳の初恋
親方との永遠の別れ 愛しい人 愛しい人との永遠の別れ
 


親方との別れ


 
  逢うは別れの始めなり」
鳶の親方が他の現場へ出発する日、

バス停へ見送りに行った私に鼻歌を歌う様な感じでそっと語りかけて来ました、

「そう辛そうな顔をするな」、

「先ほどの逆で別れは逢う事の始めなりとも言えるよ」

と口では言いながら真顔で私の両手を取って強く握りしめ

「俺の様な亘の鳶の懐に何の斟酌もせずに飛び込んで来たのは、

沢山の現場を亘ってきたがお前が初めてだ、本当に一緒に仕事できて楽しかったよ、

良い監督になってくれ、そして偉くなったらまた現場へ私を呼んでくれ、

声が掛かるのを待っているからな」と私の目を見ながら寂しそうに話して、

そしてバスへ乗り込みました。

 

 鳶の奥さんが走り寄ってきて「元気にするんだよ、

困った事が有ったら何時でも遠慮無しに声をかけて頂戴、

これは少ないけど内の主人から預かったの取っておいて」と

茶色の封筒を手渡されました、

そして「今までにも現場毎に別れが有ったけど今日は特に辛いわ」と

言いながら手を振って鳶の親方の後に続いてバスに乗り込んで行きました。

 当時のフロントエンジンの小さいバスがゆっくりと動き始めると、

夫婦でバスの後ろのガラスに額をくっつける様にして手を振っているのが見えました、

思わず私も手を振りながらバスの後をしばらく追いかけました、

次第にバスと私の間の距離が離れて行きやがてそのバスも私の涙でかすんで

見えなくなりました、人との別れがこんなに悲しくて切ない現実を私は

今の今まで知りませんでした。

 親方を見送ったバス停から現場まで、親方との色々な事を思い出しながら

とぼとぼと歩いて帰りました、現場事務所へ帰り先ほど貰った茶色の封筒を

覗いてみると5万円の現金が入っていました、当時の私の給料が18、000円だった

事から想像しても大きな金額で有ったことが理解できると思います。

 その後、優しくしてくれた鳶の親方の奥さんへお礼の手紙を書いて、

それから奥さんと近況を報告し合う文通が始まりました、

時々親方の仮名釘流の文字で「がんばれ早く良い監督になれよ、

苦労はお前だけでは無しにみんなしてるから、辛抱も寛容」等と注釈が入っていました。

 鳴門駅前の百貨店から親方の奥さんに鼈甲のの帯止めを買って送りました、

選別に貰った50、0000円を使ってその店でも高かったものでした、

そのころ親方は九州の福岡で橋梁仮設の鳶工事をしているとのことで、

そちらからお礼の手紙が届き福岡の名産が沢山送られて来ました、

そんな事があって子供の居ない親方夫婦の心の中に何時までも私というものが

残っていて欲しいと特に願う様に成りました。

 


   海上自衛隊徳島航空群コンパスローズ新設工事
 
 
 

鳥ヶ丸改良工事が終了後直ちに海上自衛隊徳島教育隊

のコンパスローズ新設工事、クリーニングエリア新設工事

    の現場へ配属されました、

この現場の所長は新制徳島大学の土木工学科を卒業した人で

ありその下に私一人が配属される事になりました。

 工事の内容は海上自衛隊が所有する対戦哨戒機トラッカーの機体を洗浄する、

クリーニングエリアの新設及び対戦哨戒機に付いているコンパス

計器を調整するコンパスローズを新設する工事でした。

 戦前に私が勤める会社が軍属企業として徳島航空隊と

和田島にある小松島航空隊を施工したと先輩達から聞きました。

此処の現場は約2ヶ月程手伝って他の現場へ転出の辞令か出ました。






徳島県発注の2級国道西条〜徳島線舗装工事。

徳島県発注の県道元町〜安宅線立体交差道路工事。

徳島県発注の下嵯峨地区地滑り対策試推工事。

徳島日産自動車発注 沖の洲自動車教習所新設工事。

 


  二十歳の初恋
 

 私も幾つかの現場で仕事をしながら、満二十歳に成りました、成人式は仕関係で参加することは出来ませんでした。

 

 上の写真は私が二十歳に成った記念写真

 

 丁度そのころ大塚製薬の里浦工場で水槽の新設工事が設計コンペで発注されました、

県内三者のコンペで当社は学校出て間もない私が担当させてもらい、運良く私の設計で

見事に当社が受注することが出来ました。

 この水槽は25、000m×12。000m、深さ4。500mの大きさで旧吉野川から送水管で取水しこの水槽に貯留させて、

その横に栗田工業の浄水装置が設置されて薬品精製の水に使用される訳であります。

 この現場の所長は鳥ヶ丸道路改良工事現場担当者と同じ人であり、主任技術者は工業高校の6年先輩が担当することになった、

私は設計担当者兼現場員としての配属でありました。

 この時代の構造物の基礎杭は松杭が多く使われ、もっぱら支持杭としての使用が多かったようです、

基礎杭打ちがほぼ完了したある日福岡の現場から事務所へ電話が掛かってきました。

 
電話の向こうは以前お世話に成った鳶の親方の奥さんでした、私が電話に出ると奥さんが泣き声で「主人が事故でダメかも知れないの、

主人が病院であんたの事ばかり無意識で喋っているので、忙しくて無理とは思うけど一度見舞いに来てやってくれない」と

しゃくり上げながらとぎれとぎれに話しました。

 電話で事故と聞いて私は驚きで足の震えが止まりませんでした、現場の所長に了解を貰いました以前の鳥ヶ丸にも居た所長とだったので

鳶の親方の事も当然よく知っていました、所長も心配して見舞金をことづかって行くことに成りました。

 

 徳島駅から高徳線で高松へ出て、それから岡山に行き福岡の労災病院へ着いた時はもう夕方に成っていました、

病院の玄関へ迎えに出ていた奥さんが私を見つけると泣きながら走り寄って

きました、奥さんと二人で並んで廊下を歩きながら奥さんは

「本人は知らないんだけど医者からは責任もてないとも言われているの、

好きな様にして好きなものを食べさせてください」と言われているのと寂しそうに言いました、

本人には「感づかれない様にお願いします」と奥さんに言われました。

 病室に入っていくと「おう、久しぶりだのう、偉い男らしゅうなっとる

じゃないか」と元気そうにしゃべった 、奥さんが「わざわざ徳島から来てくれたのよ」と言うと、

親方が「お前とわしは何時までも同士だからのう」と片目をつぶって笑った。

その夜は奥さんに取って貰った近くのホテルで一泊し、翌日朝早くから親方の病室へ見舞いに行きました。

 

 奥さんは丁度近くの自宅へ着替えを取りに帰っているとのことで不在でした、病室の片付けをしていると親方が目を覚まして、

「すまないなー今度という今度は無理かもしれないなー」と言いながら事故の様子を話してくれました。

 事故の概要は橋桁のエレクションでウインチを使って鋼桁を引き出していた時、

飛キンネンのシーフにワイヤーが噛み込みワイヤーが切断して親方居るところへ切れた端が飛んで来て親方を30m程下の川へ

跳ね飛ばしたとの事、安全帯はつけていたがワイヤーの衝撃でフックが開いて下に飛ばされたと聞きました。

 親方は時々痛むのか顔をしかめながら話を続けました、切れたワイヤーが腹部に当たって大きなダメージを親方に

与えているらしい下の川は水か有ったのでそれほどの大きなダメージ無かったと本人が言ってました。

 「お前には何の関係もないことだけど、ちょっと聞いて置いてくれるか」と言って話し出しました、親方の奥さんと

親方が知り合ったのは新潟県の佐渡で橋梁工事に従事していた時、大きな家の一人娘で他の人との結婚が決まっていた

奥さんと出合い、お互いが好きになってその現場を途中で止めて駆け落ちして西日本の現場を転々としていたんだョ」、

「だからあいつには身寄りが無いんだよ、佐渡には今更帰れないし、その事だけが気になって死んでも死にきれない感じだよ」

言いました。

 「こんな事頼める間柄では無いが、お前と鳥ヶ丸の現場で知り合ったのも何かの縁一期一会だよ、あいつの力に成ってくれないか」

「あいつはお前が偉く気に入って可愛い可愛いと何かにつけて言ってるからな」「歳は18才も上だが子供も無くまるであいつ本人が

子供みたいに純真な女だ、もしもの時には頼むよ力になってやってくれ」とまるで何か自分の寿命のそう長く無いことを

知っているかの様に言葉を続けました、二十歳に成ったばかりの私にそんな事を言われても、

そのこと自体がどう言う意味を持っているのか理解できませんでした。

 

 親方は「会社の方は15人程の鳶が関係しているが、それは第1ボーシンの杉原に任せて居る家内では俺の仕事の跡を

継いで行く器量が無いと思うんだ、旅から旅の生活では可哀相に思うんだよ、

相談相手に成ってくれれば良いと思うんだがな」と私の顔を見ながら頼み込む様に言われました。

 私は親方のその言葉に何の返事をすることも出来なかった、あまりにも未だ若く世間知らずの自分で有ったと思っています、

二人は目と目で見つめ合いながらしばらく沈黙が続きました、そのときドアがノックされて奥さんが洗濯した下着の着替えを持って

帰ってきました。 二人は先ほどの話はまるで無かったかの様に違うたわいもない話題で3人で話を始めました、

午後になって徳島へか帰ることを親方に告げると、

親方は急に寂しそうな感じで「忙しい時にすまなかったな、所長によろしく伝えてくれ」と小さい声で言いました、

私は「親方このくらいの怪我大したこと無いですよ、しっかりしてください、早く元気になれる様頑張って下さい、

私が所長に成った時現場を手伝いに来るんでしょう」と言って

病室を出ました病院の玄関まで送ってくれた奥さんは泣きながら歩いていました。

 
タクシーに乗り込む前に「奥さん親方を頼みます」と言って手を出すと奥さんも何の躊躇もなく私の手を握ってくれた、

最後に女の人とは思えぬ力でぎゅっと私の手を握り返してきた、「それじゃ帰ります」と言って奥さんの顔を見ると目尻に

大きな粒に成っている涙が宿っていました鳥ヶ丸で親方夫婦を見送った時には私が涙を流したことをほんの昨日の事の様に

思い出しました。 奥さんの口紅の赤い色がみょうになまめかしい感じがしました、

出て行くタクシーの後ろの窓から奥さんの姿がだんだんと小さくなってやがて見えなくなりました。

 徳島へは翌日の午前中に到着直ぐに現場へ復帰して作業を始めました、現場の方は3日ほどの間に工程が結構進んでいました。 

 


親方との永遠の別れ

 

 それから10日ほど経って水槽のベースのコンクリート打ちが完了して休んでいた時、事務所へ福岡から電話があり私が出ると

「電話の向こうでしくしくと泣き声が聞こえるだけで、「もしもし」と大きな声を出すと、鳶の奥さんが「ダメだったの今日の朝の十時に

逝っちゃったの」と言って電話を切りました、午後2時過ぎに徳島駅から福岡へ汽車で出発しました、

所長は「5〜6日向こうでお世話してこい」と気持ちよく休暇を頂き現場一同のお香料として十万円を預かりました。

 

 翌日の正午には親方が安置されている自宅へ到着することが出来ました、玄関には奥さんと親方の跡を任されると言っていた

杉原さんが迎えに出てくれました、

親会社からも現場所長を始め九州支店の支店長他色々な肩が方が次々と弔問に訪れて親方の人脈の広さに驚きました、

弔問客の合間を縫って奥さんが親方の所へ私を案内してくれました、「あんた、待っていた人が徳島から来てくれましたよ」と

言って泣きながら顔に被せられていた白布を除けると少しは痩せている感じだけど穏やかな親方の顔が見えました。

 私が奥さんに「親方は無くなる前には苦しまなかったですか」と聞くと「そんなに苦しむ事も無かったのですョ」

「ただ、貴男にはもう一度逢って話したいことが有る」と何度も言ってました「貴男に何の話が有ったのでしょう、

もう一度アイツに逢いたい」と主人は言いながら二度と帰って来られない黄泉の国へ逝ってしまったのと言ました。

 

 翌日葬祭場で親方は荼毘にふされました、数時間後私の大好きであった親方は小さな陶器製の骨壺に入っていました、

人の世の儚さと空しさを思い知らされました、本当に人の終焉は一筋の白い煙で終わりなのでしょうか、

それではあまりにも惨い感じがします、私はそれだけでは無く一期一会それそれの人の心に思い出として

必ず残っているものだと強く思いました。

 
翌日、私と奥さんが話しているところへ跡を任された杉原さんが訪ねてきました、親方が完成を見ることなく心を

残して逝った橋梁の上部から親方の遺骨の一部を散骨することを親会社が許可してくれました、

今から出られますか」と言ってきました、私と奥さんは杉原さんが運転する車で橋梁の架設現場へ到着しました。

 現場には所長を始め職員一同と職人達40人程が綺麗な作業服にヘルメット姿で整列していました車から降りた奥さんが抱く遺骨に

全員が手を合わせて拝礼してくれました、橋は両端から延びていましたが、未だ中央部では結合して居ませんでした、

その突端へ私たちを所長が先導してくれました。

 先端で所長が大きな声で「親方、どうかこの橋梁が無事に完成できる様天国からお守り下さい、何卒安らかにお眠り下さい」

と言って散骨を促されました、私と奥さんで骨壺に入った親方の遺骨を手に取って深い谷に向かって散骨しました。

深い谷へ風に乗って広がりながら落ちていきました、散骨の瞬間「親方の声が聞こえた様な気がして」耳をそばだてたが

風の音だけが「ヒューゥ」と吹き抜けて行きました。

 親方に仕えていた鳶達が肩を震わせて泣いて居ます、すすり泣きの声がやがて次第に大きく聞こえて、そこに居た全員が泣いていました、

所長も目を赤くはらしていましたが「それでは事務所でご休憩下さい」と言って先頭に立って事務所へ引き上げました、

事務所の休憩室には昼食の弁当が会社の好意で構えられていました。

弁当を頂きながら「さすがスーパーゼネコンだ配慮が行き届いている」私も将来はこのような心の広い行き届いた配慮の出来る

所長に私も早く成りたいと思いました。

 

 あわただしい数日をホテル住まいで過ごして初七日も終わった頃、奥さんに呼ばれてシワだらけの封筒を黙って渡されました、

「何ですかと言う」と奥さんは「徳島から来たらこれを渡してくれ」と託かっていたのと言いました、封筒を開けてみると以前私が奥さんと

それぞれの近況を文通していた時、その文の所々に注釈してあった親方独特の仮名釘流の文字で「頼む、頼む、頼みます」の

文字が書かれていました。

それを読んだ時、今の今まで泣くまいとこらえていた涙がどっと溢れ出し、声を出して肩を震わせて泣いてしまいました。

 この前見舞いに来た時なぜ私は親方の頼みに「任せて下さい」と言うことが出来なかったのだろうか、

どれほど親方が喜んでくれただろうと思うと自分の器量の小ささと度胸のなさに唇を噛みました。

 親方が苦しい中で最後の力を振り絞って必死で書いたで有ろう事を思うと私の目から涙が止まることは有りませんでした、

若い私が力になると言ってもそれには限りが有ると思うけれど奥さんの頼みは真摯に受け止めて出来る限りの応援をしようと心に誓いました。

 
親方のしまいも終わり、いよいよ徳島へ帰る日、杉原さんに連れられて大手建設会社の「橋梁仮設の現場」の所長のところへお世話に

成った挨拶に伺居ました、所長は私に「大変だったね、ご苦労さん」「又何時の日にか君と一緒に仕事出来るのを楽しみにしている、

元気で良い監督に成ってくれ」と励まされました。

その時私はこの所長と将来どこかで一緒に仕事する事が出来ればどんなに楽しいか、又出会いたいと心より願いました、

それから福岡を後にして徳島へ帰りました。
 
 

 里浦工場の現場はそれから6ヶ月程で私の設計した水槽は完成しました、水槽の完成までは大塚製薬の里浦工場の中に宿舎を建設して私は

宿泊していましたが、水槽が完成して他の業者が入ってくると宿舎が邪魔に成り解体してしまった、

そこで私は松茂町笹木野にあったおばあさん一人で生活している家の離れを借家して宿舎にして現場からは

ホンダベンリィと言うオートバイで通っていました。

 


 愛しい人

 

 借家は二部屋で片方は2坪の台所ともう1方は6畳の寝室とに別れていた、

夕方疲れて自分の宿舎に帰るとおばあさんが

「あんたのお母さんが訪ねてきているよ」と教えてくれました、

何で母親が来るんだろうと部屋に入ると、

なんと親方の奥さんが紺色のミニスカートに白のブラウス姿で台所で

夕食の用意をしていました。

 「お帰り疲れたでしょう」と奥さん、「びっくりしたョ」と私が言うと

「1週間位此処で泊まっていきたいの、ダメ」と娘の様な生き生きした声で

言いました、「イヤー」と返事に窮していると

「此処の家主さんには母親と言って挨拶させて貰ったから大丈夫よ」と奥さん、

そう言われても何が大丈夫なのか私には良く理解できませんでした。

 家主のおばあさんはもう82歳にも成っていたので夕方の6時には

風呂に入って寝てしまう毎日です、今日もおばあさんが「お先に湯を頂きました、

後よろしく」と連絡してくれました、

 田舎の風呂場は凄く大きくて冬は寒さを感じる位の浴槽であります、

私は奥さんに「先に風呂へ入ってきます」と言って風呂場へ行き満々と

堪った浴槽に浸かり今日一日の疲れをほぐそうと手足を伸ばしました。

 ガタンと言う音がして風呂のドアーが開いて奥さんが入ってきました、

「背中を流させて貰うわ」と言いながら全裸でタオルで前の一部を隠して入って

きたのです、38歳という奥さんの体は佐渡生まれの佐渡育ちと言われるだけに

色白のピチピチとした体で乳房はお椀を伏せた様な張りのある形をしていて

乳首は子供を産んで居ないので薄茶色で小さく、

乳房にめり込んでいる様な形をしている、2、3度体へ掛け湯をした後

私の入っている浴槽にそっと入ってきました。

 大きめの浴槽に向かい合わせに浸かった私と奥さんは、

言葉も無く目と目を見合わせて恥ずかしそうにお互いに微笑えみました、

そのうちに私の足に奥さんの足が接触しました、

瞬間に私の体の一部に意志とは全く関係なく突然変化が起こりました、

奥さんに「背中を流すから外に出て」と言われたが体の変化が恥ずかしくて

どうすることも出来ない状態で困りました、

奥さんが先に出て私に背を向けてスポンジに石鹸をつけていたので、

その間にタオルで前を押さえて洗い椅子に腰掛けました。

 奥さんは黙って私の背中を一生懸命に流してくれました、

後ろから体を立ち上げて私の前に手を伸ばして恥ずかしいところまで綺麗に

洗ってくれました、何故こんな事を奥さんはしてくれるのだろうか、

奥さんに話しかけて聞いてみようと思いましたが話しかけることによって

自制心を失って突然にとんでも無い事を目茶苦茶してしまいそうで

黙ってなすがままにして洗って貰い風呂を先に出ました。

 
風呂を出て先ほど作ってくれてる料理の前で奥さんが風呂から出てくるのを

待っていました、薄紺色の浴衣を腰紐で締めて奥さんが出てきました、

小さい茶部台に向かい合わせに座って先ほど作ってくれた御馳走を二人で食べ

始めました、未だ経験は無いが一瞬夫婦と言うのはこんな感じなのかなと

思いました。

 

 食事が終わって6畳の広い部屋に移り万年床の様に敷いていた布団を捲り上げて

片付けた後に二人は座って、親方が亡くなってからの話を聞かして貰いました、

親方が亡く成ってから6ヶ月が経ったので佐渡へ帰って両親に

親不孝を詫びる墓参りをして来たとの事です、

ご両親は奥さんが駆け落ちして行方が解らなくなった心労もあって

母親は5年後に病没し父親も後を追う様に亡く成ったとの事で、

一人子で兄弟は居なくて叔父さんが居るけど、

挨拶に寄ったら無視して逢ってもくれなかったとのこと、

駆け落ちして音信不通に成っていたので両親が亡くなった後叔父さんが

財産を管理しているので今更娘が帰ってくるのは不都合で有ったとの話でした。

 それで奥さんは佐渡から傷心の気持ちで福岡に帰る前に大塚の現場の所長に

電話して私にお礼が言いたいとの事で私の住んでいる住所を聞いて訪ねて

来たとの事です、「此処で1週間泊まって行きたいと言われても

一人分しか布団は無いです」と私が言うと、

「生娘であるまいし1つの布団で一緒に寝たら良いじゃないの、

何にもしないわよ安心して」と奥さんが言った。

 二人で親方との出会いの頃の話や鳥ヶ丸で私との出会いの頃の話等

次々に夜の更けるのを忘れて話し合いました、

奥さんが「幸子」サチコと言う名前や、月に30万円は杉原さんの方から生活費として

鳶の組織を任した代わりに送金してくれる事などを教えてくれました、

時間もすでに夜の11時を回って居ました。

 

 「もう寝ますか」と私が言うと「横にならせてね」と言いなら

炊事場の方へ寝間着に着替えに行来きました、

その間に捲り上げていた布団を敷いて私は布団の端へ体を入れた、

幸子さんが着換えを終えてそっと布団の端を上げて体を入れてきました。

 二人は布団の中で間を開けて体を硬くして天井を黙って見つめていました、

私の心臓はドクンドクンと壊れないかと思うほどの動機を打っていた、

しばらくして幸子さんの手がゆっくりゆっくりと敷布団の上を私の方へ

這って来ました、そして私の手を握った、

その手をぐっと幸子さんが自分の方へ引っ張った、

それガ弾みに私の体は幸子さんの方へ向きました、

幸子さんも私と向かい合う様に体を此方に向けて、

身体の向きを変えたのと同時に寝間着がずれて胸が露わになり形の

良いお椀型の乳房が露出しまし。

 ブラジャーは付けていない様でした、

そのうちに幸子さんは寝たままの状態で腰紐を解いて寝間気の袖を抜いてはずしました、

その時持ち上がった布団の間から、白い体に漆黒のアンダヘヤーがくっきりと

見えました、幸子さんは寝間着の下には何も付けていなかった、

目を閉じたまま幸子さんは何にも言わず私を抱きしめてお椀型の胸に

私の頭を押しつけてきました、パクンパクンと私の心臓は爆発寸前に達していました。

 やがて幸子さんが自分の片方の乳房を摘んで私の口に押しつけてきました、

私は無意識に口を拡げて乳房を銜えました、

二十歳に達した男が子供の頃母の乳房を吸っていた様に乳房を吸いました、

口の中で先ほどまで小さかった乳首が大きく勃起してくるのが感じられ、

もう私の自制心が堰きを切った様に壊れていきました。

 私のもう1方の片手が片方の乳房を揉んで、

誰も教えてはくれなかったこんな事が何故自然に出来るのか不思議でした、

幸子さんが私の体の上にのし上がって唇を求めてきました、

キスは初めてで幸子さんの舌が私の口の中をむさぼる様に蠢いていた。

 自然と私の両手は幸子さんの背中に回って抱きしめていました、

ウエストのくびれた所へ手が降りていってやはり無言で抱き合っていました、

お互いの息遣いか激しくなって相手の心臓の鼓動が聞こえるほどに興奮して

何だか凄く切なくなっていきました。

 幸子さんはこれから先を期待したのか体を起こして天井からぶら下がっていた

照明のスイッチを引っ張って消しました、部屋は真っ暗に成り幸子さんは

私の上半身に覆い被さってきました。

  その瞬間私の瞼に「親方がヘルメットをかぶって現場で指示している姿」が

浮かんでは消えました、私は頭から氷水を被せられた様な衝撃を受け、

「自分は何をして居るんだ、あれだけ可愛がってくれた親方の奥さんとこんな

関係に成れば人の道に外れる」と思い身体が急速に冷静化して行くのを自覚しました。

 

 私は立ち上がって部屋の照明を点けて部屋明るくしました、

奥さんの幸子さんは頭の上まで布団を被って顔を隠していました、

二十歳の私は38歳の幸子さんに主導権を握られて此処まで進んできたが、

幸子さんに恥をかかせて恥ずかしい思いをさせてはいけないと思い、

「奥さんごめんなさい、私がどうかしていたんです、奥さんの事は嫌いじゃ無いけど、

これから先はダメです、死んだ親方に顔を合わすことが出来なくなります」と

言いながら、幸子さんの顔が見える様に布団を捲りました。

 奥さんは「私が悪いのョ、幸子は悪い女」と言いながら私を見つめる目から

一筋の涙が敷き布団の上に落ちていきました、

「解ったから横に寝て頂戴」と言って幸子さんも身体を起こして話しかけてきました。

 二人で最初の様に並んで布団の中で眠りに就きました、

先ほどまでの嵐の様な行動が嘘の様に静かに眠りに就くことが出来ました、

朝方ふと目を覚ますと私は幸子さんの腕枕でふくよかな胸に顔を埋めて

眠っていたようです、

手枕から頭を抜こうと動かした時に幸子さんが目を覚まし「おはよう」と

言って起きあがりました、嵐の後みたいに清々しい朝を迎えることが出来ました。

 

 奥さんからは「一週間は此処で止めて欲しい」と言う希望が有ったので、

あれから毎日朝食と夕食は手料理を食べることが出来て宿舎へ帰ってくるのが

楽しみの1つに成りました、夜は1つの布団に二人並んで寝ています、

しかしその後も一戦を超えることはありませんでした。

 土曜日は現場が休みだったので鳴門の渦をオートバイに乗って見に行きました、

観潮船に乗って渦の上を横切った時には、まるで高校生の様なはしゃぎ方で

楽しい一日が過ごせました。

 日曜日には日和佐薬師寺へお参りに行ったり休みの日は、

幸子さんの見たい所、行きたい所へ一緒に出かけました、

歳こそ離れていましたがまるで恋人どおしの様に時には手をつないで歩いたり、

砂浜で幸子さんの膝枕で遠くの海を何時間も見ていた記憶が有ります 。

 

 水曜日の昼に徳島駅から福岡へ帰ると言うことで、

その日は所長に朝から休暇をもらい徳島駅へ送っていく予定を組んでいました、

月曜日の夕方喜び勇んで宿舎へ帰ると茶部台の上には1人前の夕食と一枚の便せんが

重しで押さえられて置いてありました部屋を急いで探してみてもどこにも

幸子さんの姿は有りませんでした。

 
便せんに目を通すと幸子さんの綺麗な字で「長い間楽しい時間を本当にありがとう、

可成り悩んだのですが思い切って貴男を訪ねて良かったと思っています、

久しぶりに若返ってめくるめく様な楽しい毎日でした、

水曜日まで居たかったのですが別れが近づいて来ると共に自分がコントロール

出来なく成りそうです。

  悪い女に成って貴男に嫌われそうに思えて怖かったので綺麗な関係のままで

今日福岡へ帰ります」「追伸、もう少し悪い男で居て欲しいと思うこともありました、

一年して主人の裳が明ければもう一度訪ねてきます、

その時は一人の女として付き合って下さい、

それでは何時までもお元気で大好きな貴男へ」と書かれていました。

 これを読んで私の所から居なくなった幸子さんの事を考えると、

大きな宝物を失ってしまった様な、何だか心に大きな穴が開いて「すうすう」と

風が通り抜けていくやるせない思いで食事は喉を通らず、

眠ることも出来ませんでした、現場へ出ても考えることは幸子さんと過ごしたわずか

5日間の事ばかりが思い出されて仕事もまともに手に付かない状態が続きました。
 
「寝ては夢起きてはうつつ幻の・・・・・」と言うフレーズを聴いた

ことが有りましたが、恋の病に掛かってしまったのか、二十歳にして初恋なのか、

18歳も年上の女の人を好いてどうすると思いながらも割り切れない

毎日が続きました。

 

 直ぐにでも福岡へ電話したかったのですが、

電話で幸子さんと話し合うととんでも無いことを口走りそうで、

1週間経った頃に幸子さんへ電話しました、電話の向こうでは元気な幸子さんの

声が聞こえました10分ほど他愛もないことを喋って電話を切ろうとした時

幸子さんが貴男が好きになってしまったの、こんなおばちゃんでゴメンね、

でも逢いたいの」「今すぐにでも逢いに行きたいは」と言われました、それを聞いて思わず

「私も幸ちゃんが好きです」と言ってしまいました、

「本当うれしい貴男も身体に気をつけて元気でね、一年したら徳島へ行くから」と

弾んだ声が返ってきました。

 それからは毎週土曜日に福岡と連絡を取り合うのが日課となり、

近況を報告し有ったり、後何日したら徳島へ逢いに行けるとか、

幸子さんの方からは福岡の名産が送られて来たり私の方は鳴門の金時芋を

送ったりしていました。

 


愛しい人との永遠の別れ

 

 大塚製薬の水槽新設工事も完了して私は鳴門市新池川の扉門工事に従事していました、

大塚製薬の里浦工場と新池川の現場は近かったので宿舎は松茂町笹木野の

おばあさんの離れを借家して続けて住んでいました、

幸子さんが泊まりに来てからすでに10ヶ月が過ぎようとしていました。

 今までは毎週定期便の様に電話したり電話が掛かってきたりしていましたが、

先週電話しても幸子さんと全然連絡が取れなくなりました、

手紙を出して近況を知ろうとしましたが手紙の返事も一切有りませんでした、

それから3週間ほど経った頃現場の所長が「杉原さんという男の人から事務所へ

電話が掛かっているョ」と伝えてくれました。

 
走って事務所に行き電話へ出ると福岡の杉原さんからの電話でした

「奥さんが今日朝の6時に亡くなりました、

一月ほど福岡の病院へ入院していたのだけどダメだった」とのこと、

胃ガンで手術したけどその時には他へ転移していてどうしようもなかった

らしいとの事でした。

 私が終いをしないと身寄りが居ないので病院で奥さんの遺品の整理していたら

「奥さんが病院で書いてた日記にあんたの事が随分出てきてたので、

勝手に連絡させて貰ったんだよ」と言いました、「葬式は何時ですか」と聞くと、

明日は友引なので明後日に福岡の親方と居た家で行います」とのこと、

話が終わると一度に身体から力が抜けて私の身体が地面に潜り込んでいく様な

錯覚に襲われました。

 

 その日の午後徳島を発って福岡に向かいました、

車中で幸子さんとの事が走馬燈の様に思い出されて「一年の喪が明けたら

徳島へ行くから一人の女として付き合ってね」と電話でうれしそうに

喋ったのがほんの昨日の様な気がして、亡くなったことが信じられない私でした。

 駅からタクシーで親方と幸子さんがが住んでいた家へ向かい、

玄関へ迎えに出ていた杉原さんと逢いました、杉原さんは取り合えず

「奥さんに会ってやって下さい、きっと待って待ってしていたのじゃないですか」と

奥さんが安置された部屋へ案内してくれました、

顔の白布をめくると顔は大分痩せていましたが、北国育ちの色の白い整った顔が

有りました、目を瞑って何にも言ってくれない幸子さんを見ている内に

涙が次から次へと流れてきました。

 「奥さん水くさいョ、病気なら知らせてくれれば俺が初めて好きに成った人だから

会社に休暇届を出してでも最期までお世話させて貰ったのに」と

心の中で叫びました人前なので口には出せなかったけれど、

「今か今かと徳島へ貴女が来るのを楽しみに待っていたよ」と叫びたかった、

座った私のズボンの膝の上に涙が落ちて跡が出来ていきました、

それを見た杉原さんも懐からハンカチを出してそっと涙をぬぐっていました。

 

 その夜、杉原さんが私に奥さんが病室で書いていた日記を手渡してくれました、

日記を読んでいく内に堪らずにすすり泣いてしまいました、

「楽しみに一年を待ちにに待っていましたが、どうも無理な様な気がしています、

もう一度元気になって晴ちゃんに逢いたいです、あなたをこの胸に思い切り

抱きしめたいです、こんな気持ちを死んだ主人が怒っているのでしょうか、

手術してもちっとも良く成らず痛みが続きます」

 「歳の違う晴ちゃを好きに成ってしまった報いなのですか、お神様もう

一度徳島へ行ける元気を私に与えて下さい、

そして私は本当の自分の気持ちを大好きな私の晴ちゃんに伝えたいのです、

私の腕の中で無邪気に眠っていた晴ちゃんにもう一度逢わせて下さい」。

 今日夢の中に死んだ主人が出てきて「あいつとは上手くやっているか」と

笑いながら話しかけてきました、主人は怒っていなかったと思います。

私を佐渡から駆け落ちして連れ出した責任を感じているのですか、

私は貴男と充実した幸せな16年間を過ごせました

ちっとも後悔などしていません、もう少し長く私を待っていて下さい。

 貴男が大好きで可愛がっていた「あの子を私も好きに成ってしまいました」

すでに二十歳になって男を感じる歳頃です、とにかく逢いたいのです、

次第に痛みがきつくなっていく状況が刻刻と書かれていました。

 私はそれを読んでもう二度と目を開けてくれない幸子さんへの

思いを日記の続きに泣きながら書きました、

とにかく歳なんか関係ないと思いました、人を純粋に好きに成ることの

切なさや辛さ、今となってはどうしようもないけれど、

私も幸子さんが本当に好きであったことを面々とつづりました。

 

 翌日葬祭場へ行って遺体を入れた箱の中に奥さんが私との事を書いていた

日記をそっと入れてあげました、

杉原さんが「あんたが持っていた方が奥さんも喜ぶよ」と言いましたが、

私は前日に読んで1ページ1ページの内容を心の中に完全に記憶したのです、

私の思いをその日記の続きに書き足して黄泉の国への旅立ちのお供として

持って行って貰いたかったのです。

 葬儀に橋梁工事の現場所長も参列してくれました、

「血のつながりも無いのに大変だねご苦労さん」とねぎらってくれました、

未だ、この頃のスーパーゼネコンの所長は地方の建設業者の技術を向上させる為に必死で

ガンバって居た時代で結構良い人が多くいた時代でした。

 現在の様に利益追求のみに走る様な所長は少なかったと思います、

ある意味で本当に良い建設業界の状態でした、

 

 喪主は杉原さんが執り行い無事に完了して私は徳島へ出発しました、

そして私の二十歳の初恋もこれを持って終演しました。

 
考えてみると世の中は不思議なもので学校を出て初めて出た現場で知り合った、

鳶職ご夫婦の最後を他人の私が葬儀に参列して福岡の山の上に杉原さんと

納骨してきた事を思うと感無量です、

そして生まれて初めて愛しい人と思ったのが年上の親方の奥さんで有った事など

何だか人の世の不思議な縁を感じました。

 

 徳島へ帰る汽車を待つホームで杉原さんが言いました。

「あかの他人同士が知り合って好きになったり、好かれたり、

これから先にも色んな事が有ると思うけど、その時々を精一杯お互いに生きて行きましょうや」

「若いという事は物事を真っ正面から見られて行動出来るすばらしい事だと思いますョ」

「貴男も今回は色々と辛くて苦しい事も有ったと思うけど、

それは貴男の人生に取って決して無駄では無かったと思います」

「学のない私がこんな事言ってちゃ笑われるかも知れないけど先輩の

一人言として聞き流して下さい」と雲一つ無い青空を仰いで言いました。

 
汽車がホームへ入って10分間停車している間、杉原さんは車両の中に乗り込んできて

「私は親方から預かった15人の鳶を誰にも負けない職人に育てていきます、

それがお世話になった親方への恩返しと思っています」

「貴男も身体に気をつけて事故をしない様、早く良い所長に成って下さい、

是非又逢いましょうと」と言って私の手を堅く握って汽車から降りて行きました。
 
 

 徳島に帰り、ゆっくりと時間をかけて考えて私は人と人の出会い、

一期一会の大切さを十分に知ることが出来ました、

高校生の頃父親に良く言われていた事が思い出されます

「人と付き合う時には掛け値無しで誠心誠意付き合え、それが貧乏人で育った

お前の宝物」だと。

 

 その後。私が大阪支店の土木部長として赴任した大阪で

団地の処理場の仕事をしていた時に、鉄骨の組み立て鳶として

「奥さんの喪主をして貰いお世話に成った」杉原さんと再会することが出来ました、

そして一緒に昔を振り返り雑談に花が咲きました、

杉原さんはすでに全国を又にかけて仕事している鳶の親方に成っていました、

杉原さんのおかげで非常に良い仕事をする事も出来ました。

 そして十数年後、私が常務取締役になった時期にあの福岡の橋梁架設現場の所長が

スーパーゼネコンの四国支店長になって高松へ赴任していました。

 偶然に県外スーパーゼネコンとの懇親会で顔を合わせお互いの無事を喜び合い、

その会社と私の勤める会社が企業体を組んで仕事を受注し

お互いに良い仕事することが出来ました。

 これもきっと親方と奥さんの幸子さんが天国から見守っていてくれた

御陰で再会することが出来たのだと思いました、

それにしても今になって考えても親方が死ぬ前に手紙に書いていた

「頼みます」という意味は、私が奥さんと男と女の関係に成って

面倒見てやってくれと言いたかったのか、

相談相手として力を貸してやって欲しいと願ったのか、

今でも理解しかねて時々思い出しては悩んでいます。

 

 

 
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