高校時代〜20歳まで   成長の記録-02


ハエの親と子供
出会いに学びし頃
社会人のスタート
誰が為に生まれたか
初めての土木現場
青春の想い出

 


 

 ハヤの親と子供 

 

 

 工業高校に入ってからは毎日朝早くから学校に行き、

帰りは部活が終わってから帰って来てたので自宅へ帰着するのは

大体午後8時を回っている事が多かった。

そんな事で今までの様に弟妹達と時間を共有して

遊んだり面倒を見る事が次第に少なく成りつつありました。

 私の家の前には那賀川から立江方面に流れる立江用水という

幅6.00m深さ2.00m位の川が流れていました、

現在の様なコンクリートの3面張りの用水と違って

それは両岸が石積みで底部は自然の土のままで、

用水の中には「ハヤ」、「鮒」「泥鰌」「ナマズ」

「ウナギ」等が生存していました。

 そんなある時、父親が「オイ、ちょっとこっちへ来てみろ」と私が呼ばれました、

言われるがままに父親の後に付いて家の前を流れる立江用水の中へ

入っていった季節はもう初秋で米の刈り取りが始まろうとしている時期で

立江用水には米作に必要なくなった水は上流の水門が閉められてすでに止まっていた。

 立江用水へ親子で入り所々に出来た川底の水溜まりの

1つに近寄り父親が「どう思うか」と聞いてきました、

急に何を言うのかととまどったが水溜まりを良く見てみると、

そこは干上がりかけている水溜まりの中に大きな「ハヤ」

1匹と小さい子供の様な「ハヤ」が2匹が水溜まりの中で

水が無くなり死んで行く最後の時を待っている状態で有りました。

 親の「ハヤ」は水が少なくなり浅くなって普通に泳ぐ事が

出来ず横に成った状態で口をパクパクとしていました、

横に成ったハヤの腹が浸かるか浸からないかのぎりぎりの水深である、

その内に親の「ハヤ」が体を大きく跳ねながら最後のあがきをし出しました、

水溜まりの水は時間の経過とともに少なくなっていました。

 父親は「あれを見てもお前は何も感じないか」と言いました

「可哀相だけどもう直ぐに死んでしまうね」と私が答えると、

父親が「お前物事の表だけを見るのでは無く裏側の意味を感じる人間に成れよ」

と怒った様な口調で答えました。

 親子で会話をしている間に親の「ハヤ」がひときは大きく体を何度と無く

跳ねさせて、最後には水の無い水溜まりの外へ飛び出して口を大きく開いて

動きを止めてそして死んで行きました。

 

 父親が私に諭す様に語り始めました、

「親のハヤはやがては水が無くなり死んでいく事を本能的に知ったのだよ」

自分の子か他人の子かそれはお父さんには解らないが

「親のハヤは自分が持つ最後の力を振り絞って、

体を何度となく跳ねらせて土を跳ね飛ばしてそこに窪みを作り、

浅く広い水溜まりの水が窪みに集まって水深が深くなり、

親のハヤは残して行く2匹の子供のハヤが少しでも長く深い水溜まりで

生きられる様に最後の仕事をして、

自分は力尽きて死んでいったのだよ」そうは思わないかと言いました。

 毎年のように立江用水の水が止まると川底のあちこちで、

干物のように干からびて死んでいるハヤを沢山見てきたが、

こんな小さいハヤの親子にも生きるために、

親は子を少しでも長く生かすために、

こんな葛藤が繰り返されていたのかと思うと、

今、目の前で死んでいった親のハヤと何も知らないで、

当たり前の様に親が最後の力と自らの死で作った窪みを泳いでいる2匹子供の

ハヤを見て。 親とはなんて凄いのだろう、

子供のために死ぬ事でも自分が無意識のうちに子供達に少しでも多く水を

残そうとして、自分は水を飲まない様に水のない外に飛び出して死んで

行ったと思うと、自然の摂理とは言うものの胸が切なくて涙がこみ上げてきました、

瞼に宿る涙で目の前の水たまりもかすんで見え無く成りました。

 

 父親が「お父さんや、お母さんは、

おまえや姉弟を生かすためであったら、あのハエの親のようにいつでも死ねる

のだよ」「それで自分の命はちっとも惜しいとは思わない可愛いお前達のためなら、

親とはそんなものなんだ」そう言って私の肩を軽く「トン」と叩いて立ち去りかけて、

振り返りながら、「親ハヤが苦労して残した2匹のハヤだ掬うて庭の池に

入れてやれ」と言っいました、庭の池に放した2匹のハヤがスイスイと泳ぐ姿を見て

すごく良い気持ちで優しく成った自分を自覚しました。


 そしてどんな事が起きるか解らない今の時代にこそ、

小さい弟妹たちを守るため見守ってやり、

時間を作って明日から優しい兄に成ろうと心に誓いました。

 今になって考えてみると、

当時父親が言ったように「あの小さいハヤに親が子を思う知能」

が有ったのか疑問に思いますが、

現在90歳を超えようとしている父親が当時は、

貧乏の子沢山のなかで親は私たち子供に対して、

お前達をこんな気持ちで育てているんだよ」、

物事は表だけから見るのではなく裏からも横からも眺めて現象を判断するよう

人間は生けとし生きるものに、特に体の小さい生き物に優しさと哀れみ

を持てと小さい「ハヤ」の親子の悲しい行動に

例えて17歳に成った私を諭したのだと理解しています。

 



 
出会いに学びし頃

 昭和34年私は待ちに待った徳島工業高校土木科を無事に卒業する事が出来ました。

昭和34年それは太平洋戦争の敗戦から人々がやっと立ち直りつつあり、

国に活気が出始めた時代で有ったように思います、

私も卒業と同時に県内有数の建設会社へ入社する事が出来

ちょうど希望に胸膨らませたビカビカの社会人の一年生でした。

 私の就職した建設会社は徳島市の中心部徳島駅から南へ

牟岐線沿いを10分ほど歩いたところに有りました、

200坪ほどの敷地に木造平屋建ての社屋が有り

現在の立体交差は出来ておらず「剣先の踏切」と言う

旧国鉄と国道が平面交差で通行していた時代です。

 入社当時を振り返って特に記憶に残っている事と言えば「佐坂さん」と

言う人が当時の土木部長でした、

私の勤める建設会社のオーナーの親戚筋に当たる人と聞いていました、

佐坂さんは川島から鉄道で通っていました、

汽車の時間の都合で本社に出社されるのが一番早かったと思います。

 当時社会人一年生の私も汽車通勤で7時前には本社へ出社していました、

ある日佐坂さんが早くから出社して社内でぶらついてた私に

「朝からゴソゴソと歩き回らずにここへ座りなさい、字の練習でもしなはれ」

と言われました。 「自分の意志を対面せずに伝達する方法は文字しかない」

これから君が現場へ行き現場の状況や、上司への承諾事項は文字でしか

伝達出来ないぞ」「今の君の書く字では読む気にもならないヨ」

「もっと今のうちに字を練習して字を沢山覚え上手な字が書ける

ようにしなさい」と半ば強制的にそれからの朝の1時間は毎日毎日、

佐坂さんが手本に貸しくださった本を手本にして

現場へ私が出るまでの半年間ほど字の練習が続きました。

 学校で勉強するのが嫌で卒業を首を長くして待ち、

やっと社会人一年生として喜び入社したのに学校と変わらぬ朝早くからの

「字の練習」をさせるなんて、

何という会社だと思いながらも会社の上司の指示と有れば仕方なく

約半年間練習を続けたそのお陰で現在では

「人並みに字も書けるようになり、又笑われない程度の字も書けるように成り

ました」今は故人となられた佐坂土木部長に感謝の気持ちでいっぱいです。

 当時字の練習の文の手本にするため貸して下さったのが

「春燈」という久保田万太郎氏が主催する俳句の同人誌でありました、

練習するたびに無意識に俳句を読むように成り、

自然と俳句というものに馴染んでいき総務部の先輩や営業部の先輩に混じり

「春燈」に参加し以後現場に出ても趣味で俳句を作っていました。

 佐坂土木部長は女子社員男子社員の朝夕の挨拶の仕方に始まり、

お客への応対の仕方、言葉遣いから勤務状態について注意さけたり褒められたりと、

私が勤める建設会社における「昭和の大久保彦左衛門」的存在で有ったと記憶

しています、ピカピカの一年生であった私はその時々に出会う人々から

常識とか知識とかを吸収し学んでいた時代と記憶しています。

 


 社会人としてスタート

 私が入社した建設会社は当時の県内建設業界の中では

会社の歴史や業績から言っても上位に位置し頑張っていました、

入社後1月間は本社で会社の研修を受けながら電話当番から社内の掃除まで担当

していました。 その後は沖の州に有った当社の仮設部(現在の沖の州ミリオンに

成っている)へ配属されました、組織的には土木部ではなく資材部に属して仮設資材

の管理と機械の修理を担当しました、

希望に胸膨らませて入社した私としては何故学校でで習った

土木技術を生かせる部署へ配属してくれないのだろうかと

言う不満が自分の心の中では燻っていた様に記憶しています。


 まだ18歳そこそこの紅顔可憐とは
言えないまでも田舎出身の温和しい

木訥な少年に取って、それは会社からの絶対的命令として考え反抗

することなく仮設部へ着任しました、仮設部の所長は竹宮さん

という人で礼儀正しい矍鑠とした人でした、私が部下で努めて居た時に

小さい子供が居ましたが、その子が現在の漫画家竹宮さんと聞いて驚いています。

 元々機械好きで有った私に取っては、
それほど苦痛でも無く得意とする順応の

良さで先輩から仮設資材の名称や
機械の修理の方法を

教えてもらいながら頑張りました、

汽車通勤で徳島へ来ると朝本社に立ち寄り「字の練習」をしてから             

徳島市バスで仮設部へ通う毎日が続いていました。             岡田組資材部の竹宮所長と中川さん

当時の土木の現場で使用する原動機としては農業発動機の10馬力から20馬力位までの物が多く、

仮設部には毎月数十台の発動機が現場から修理や整備のために帰ってきてました、

仮説部へ配属されて一月ほど経ったころ会社の推薦で

「カツラエンジン」の工場へ修理技術取得のため出向させてもらい、

エンジンのボーリングからオーバーホールの仕方までの技術を身につける事が

出来ました。 山間僻地の土木現場で原動機が故障すると代換えの原動機を送り

帰りのトラックで故障した原動機を修理のために仮設部へ持ち帰るのが通常

でしたが、「カツラエンジン」から修理技術を取得した私が帰つてからは、

仮設部へ原動機故障の連絡がくるとその現場へ

私が修理道具所持して出張修理へ出るようになり現場の所長からは

早く修理できて便利と随分重宝して可愛いがられました。

                                           

 現場への出張修理は楽しくておもしろかった思い出が有り、土木部の先輩である現場所長

からもいろいろな苦労話を聞かしてもらったり夜にはご馳走で歓待

してくれたりと、土木の社員で有りながら現在は違った部署にいる私であったが土木部の

一員だ言う実感が湧いてきて修理にも力が入ったことを記憶しています、

その頃私の勤める建設会社は物を大切にすることに於いては県内建設会社随一と言われてました。

 

 他の業者の先輩や同級生からは「ケチな会社」とか『しまつ屋」などと

陰口を言われる事も有ったが、何の不思議にもおもわ無かったのです。

戦後14〜15年の品物不足の時代を反映していたのかも知れませんが

今ではとても考えられないような事が日常の出来事でした。
 
 
土木の現場では昔から「土方殺すに刃物はいらぬ雨の三日も降れば良い

と言われるように、雨が降り現場で作業が出来なくなると前川町にある

三和林業の土場(現在は徳島市の水道部)で建築用の型枠パネルに使った

釘を「釘しまい」と言って釘抜きバールで釘を抜きパネルをバラシて再度

組み直して使用するのだが抜いた釘を一本一本金鎚で叩いてノバシ.

それを又再利用していました。

再利用の釘には癖が付いていて上手に打たないと癖の場所で釘が

曲がってしまい、その上当時でも掛かる労務費と新規購入費を

比較すればそれほどのメリットは無かったと思いましたが、

これは「たかが釘」であってもその値打ちとものを大切にすることの意味を、

身をもって教えていたのものだと私は理解しています。

 入社してからの仮設部勤務の期間は自分が意図していた部署とは全然異なり

ましたが、それはそれなりに今日の自分に取っては「身になり骨に」に

成ったと確信しています、又そのお陰と言えば可笑しいかも知れませんが、

今になって思うと私と全く関係なかった、

将来もあまり関係ないで有ろうと思う人たちと、

私が仮設部へ配属され修理を担当した事により、

その人たちとの出会いが出来て友人となり貴重な人脈と成りました、


その後の私の人生でも困った時に指導してもらったり助けられたりと自分の人生で

随分プラスに成ってきました。

 建設会社にも那賀奥の森林開発公団の林道の継続工事が受注され、

時代は四国地方建設局でも国の行う直轄工事から民間発注への移行が始まりだしました、

又 徳島県発注の土木工事も本格的に稼働する時代の足音が聞こえ始めて来ました。

 私にも本社の佐坂土木部長からやつと土木部へ帰り四国地方建設局発注の

「昭和34年鳥ケ丸道路改良工事」への配属辞令が出た時期でもありました。

 

 


 誰が為に生まれてきたか
 
 

 昭和34年10月も終わりの頃、

佐坂土木部長より来週からこの現場へ行くようにと辞令を貰って自分なりに、

やっと土木の現場へ出る事が出来ると大喜びしながら家へ帰りました。

 早速両親の部屋に行って、

「来週から現場へ行ける様に成ったよ」と言うと母親は良かったねと言いながら

すでに涙声に成っていました、

父親は「男に成って帰ってこい」と一言いうと背中を向けて寝そべりながら

テレビドラマの続きを見ていました。

 母親が「辛い事や体がしんどい事も沢山有ると思うんだが頑張りなさい」と

小さい声で励ましてくれた、

自分の部屋へ帰ろうと階段を下りかけた時、

横に成ってテレビを見ていた父親が「今日はどこかえ出て行くのか時間が合ったら

休んで行け」と言いながら体を起こして此方を見ました。

 私は別にほかに出て行く予定も無かったので、

父親の横に正座して座ると父親が「そんなに堅く成らずに膝を崩せ」と言ったので

その指示に従って父親の顔を見ました。

父は何か私に言う事が有るのか、

先ほどとは違って真顔に成っていた「土木の現場へ行ってもお前は使いに掛からない、

イヤ、かえって足手間といに成る新人だから先輩や世話役の言う事を良く聞いて、

可愛がって貰う様心がけろ」と大きな声で言われました。

 私は黙って大きく頷いた、

約半年間の会社勤めで先輩との付き合い方とか職人との接し方も解っている

つもりである、しかし自分の懐から初めて泊まり込みの現場へ

長男を旅出させる事に何事にも動じない親も今回は心配の様だ、

「心配無いから」と私は父親の顔を見ながら言いました。

 父親はその言葉を聞いて少し怒った様な言葉使いで

「お前が私の所から出て行く事に関しては何の不安も感じていない、

しかし人としての生き方について教えてやる事が出来ていないのではないかと

自問自答していたのだよ」と言った、

私はあまり深く考えないで「心配ない、心配ない大丈夫」と言うと、

父は「お前は何の為に生まれてきたと思う誰のために生まれてきたのか」解るかと言いました。

 「誰のためと言ってもそれは父と母が楽しい事をした結果、

僕が生まれてきたのだろう」と私が言った瞬間、

父は目を大きく開いて大声で「そんな事を聞いてるのでは無い、

男と女がそんな関係に成っても必ず子供が出来るものでも無い、

子供が生まれてくるという事はお前が考えている事よりももう少し

奧が深く神秘で神聖な事なんだ」「お父さんは信心家でも哲学者でもないけど

人が生まれて来るにはもう少し崇高なそれぞれの理由が有る様に思っている」

と喋りながら、父の怒りは少しは落ち着いて来たのか小さな声でしゃべる様に成ってきました。

 「お前はお父さんとお母さんの子供に間違いは無いけれど、

それはお父さんやお母さんの為だけに生まれてきたのではないと思うんだよ」

「じゃあ誰のために生まれてくるのか、

それは先ほども言った様に子を産んだ親の為だけに生まれてくるものでは無い」。

 学の無いお父さんでは上手く説明できないけれど、

「これはきっと、この男は将来人の為に成るだろうとお神さんが期待して

この世に生を授けたと思うんだ、

だからお父さんやお母さんはお前をお神さんから預かって育てている様なものだと

思っている」と父は説明を続けた

 「神から預かったお前を、お父さんとお母さんは一生懸命に愛を注いで大事に

大事に育てて、やっとこれから独り立ちするところ迄来たのだよ、

お前がこれからどう生きるか、誰のために生まれてきたのか、

自分で良く考えて少なくとも家族や人の為に成るように生きて行くのだよ」と諭す様な口調で私に言いました。

 しばらく間を置いてから、又、父は私に語りかけてきました

「お父さんの青春時代は外国の戦地で日本に残したお前達子供や、

妻のため、大きく言ったらお父さん達戦地で戦って居る者が死んでも日本の将来を

担う子供達の為こうする事がみんなの幸せに繋がると信じて先の見えない毎日を戦っていた

のだよ明日はどうなるか解らない、毎日が「今日は生きれた」という日の連続であった。

 お前には「今日を生きて欲しい」今日を生きるという事は

将来の夢や計画を持ってその内の今日一日はこう生きた、

明日はこのように生きようと考える生き方が「今日を生きる」と言う事なのだ。

体に気をつけて「お前がどこに居ても
どんな生き方をしていてもお父さんやお母さんは何時でも

お前の帰りを待っているから」「元気に今日を生きろ」と言ってニッコリ笑い

肩を軽くを叩いて励ましてくれました、

父の部屋の階段を下りて庭に出た私は「やるぞー」と大声を出しながら

天に向かって大きく両手を拡げました。

 

 

                                             中国戦線で戦いの毎日を送っていた頃の父 前列右

                               

 


 初めての土木現場

 
 鳥ヶ丸道路改良工事は四国地方建設局鳴門
工事事務所より発注された櫛木から

香川県
引田への海岸線を 通った国道11号線の改良工事である、これまでの建設省

が行う道路工事は建設省の
直括工事で施工して いたが今回初めて建設省が民間業者

に発注した物件でありました。

 当時は徳島から香川の高松へ行くには大麻
町から阿讃山脈を越える九十九折れの

大阪峠
を越える道しか有りませんでした、鳥ヶ丸の海岸周りはとても車が走れる

様な道では無くオートバイとかせいぜい小型自動車位しか

通行が難しい道路状態でした。

海岸線沿いに国道11号線の改良工事は
鳥ヶ丸地区では海岸線と山裾との間は30m

から
50m位の距離しか有りませんでした、海岸に防潮堤を築きせり出してきた山を

安定勾配に切り取り道幅の確保を行う
工事でした。

 現場の所長は徳島工専(現在の徳島大学)を卒業して我が社に入り数々の現場


こなしてきた藤川さんと 言う人でした、所長の下に主任技術者として私の
学校の

先輩に当たる浅石主任、その下に現場員として 先輩の谷氏と私の四人
編成でありました。

  勿論全員現場事務所の宿舎で泊まり込みでの作業でした、見るものする事
すべてが初めての事で

好奇心旺盛な私としては楽しく現場で仕事させて貰い
ました、

山の切り取り作業は私が勤める会社の専門下請け会社が担当して毎日毎日発破

で地山を崩しながら法面を仕上げていきました。

 専門業者は関本班と言ってとっても優しいおっちゃん達でした、顔つきは

写真の様に怖い顔をした人もいますが私には色々と作業の進め方や発破の

仕込み方など手を取って教えてくれました、私はいつの間にか彼たちを

「関本班七人の侍」と名付けて呼んで居ました、

おっちゃん達は照れくさそうにしていましたが、呼びかけると以前に増して

笑顔で元気な返事が返ってきていました。

 防潮堤で使うコンクリートは現場へプラントを作り建設省から支給される

セメントをつかつて砂利、砂、と混合練り混ぜてコンクリートを作って

いました、私の現場での役割は測量の手伝いと、コンクリートプラントで

コンクリートの品質管理を行う事でした、当時のコンクリートのプラント

から現場までの運搬もアジテーターらしきものは未だ作られていなくて、

ダンプーカーにシートを敷いて運搬していました。
                                           
 
 コンクリートに使っていたセメントに

付いても建設省の支給品でセメントの袋

の裾に赤線が入っていました、

多分支給した現場の外へ支給セメントが

流出するのを防止するためだろうと思い

ました。

 北灘の冬の冷え込みは激しく砂利、砂

は骨材置き場で表面から10cm程度は

氷結していました、

朝早くからのコンクリートの混合はバーナ

ーで骨材の解氷から始める毎日でした。

 この現場には小松製作所のドーザーショベル

D-50Sが県内で初めて導入されました、

 現在では考えられない様な幼稚な機能で排土板と

トラクターショベルが一体化した機械でしたが、当時は県内の各建設会社から見学に

何社もが訪れ導入の検討をしていたようです。
 




左写真                   
県内発導入の小松製作所の
D-50Sを操作する
 
 
右写真

12月頃の骨材置き場で
氷結した粗骨材の状況。

 
 
 

 

北灘の冬は厳しく海からの

北風で海岸の防潮堤工事は遅々として進みませんでした、

所長の顔から笑顔が消えて事務所全体が暗い雰囲気に成って行きました、

あまり事の解らなかった新入一年生の私だけが工期の事も考えず毎日を楽しく

元気に頑張っていました。

 現場で働く近所で雇っていた人夫のおばちゃんや土方のおっちゃんからは、

元気に走り回っている私を本当に我が子の様に可愛がってくれました、

暗い顔をした所長や主任にはその人たちも話し掛け憎かったのかも知れません、

昼間の仕事が終わると近くのおばちゃんの家でテレビを見せて貰うのが唯一の

楽しみで、その内に親父さんの晩酌の話し相手をしたり食事をごちそうに

成ったりと本当に楽しい一年で有ったと思います。 天候不純のあおりも有って

3月20日に竣工の予定が7月の中旬まで掛かり

会社としては大きな赤字を出して問題に成ったと聞きました、

私か初めて現場へ出て頑張ったのに赤字に成るとはと思いましたが、

未だ私は駆け出しで予算の事はほとんど解りもしなかったのですが、

唯一私は現場が性格に有っているなと確信できた現場でも有りました。

 


 本当の男になる

 

 

 工事もほとんど終わりに近づき、私を大事にしてくれた鳶の親方が

「この月末にはここを引き上げるので一度遊びに連れて行くわ」と私に連絡して

きました、数日後鳶の親方の若い奥さんに見送られて鳥ヶ丸からバスに乗って

鳴門市の林崎の店へ二人で行きました、私は未だそのときは「本当の男」に

成っていませんでした。売春防止法はすでに施行していましたが、

此処、林崎では未だ怪しい店が軒を並べていました、

途中で腹こしらえをしておこうと料理屋に入り食事を始めました、

鳶の親方が「わしにはは子供が出来なくて跡継ぎがいないんだよ」

「お前わしの所へ養子に来ないか」と食事の後突然に言い出しました。

 「私には四人の弟妹が居ますから」と言いました、

そのとき瞬間的に苦労して育ててくれた父親の顔と母親の顔が浮かんできました、

そんな事で「簡単に養子に来いと言われても」「ハイ」とはなかなか言えませんでした。

 「お前は女との経験は有るか」と親方に言われ、

私は顔を赤くして黙っていました親方は「解った、

それじゃ今から俺がお前を男にする場所へ連れて行く」と言って先に立って歩き

出しました、仕方なく私もその後へ続いて一軒のそれらしき店に入りました。

 

  親方がなじみの店であったのか女将らしき人に「一台新車納入」と言うと、

女将さんは笑顔で奥の方へ「〇〇ちゃんお客さん」と大声で叫びました、

年の頃は30才位の丸顔の可愛い感じの女の人が出てきました。

 私の手を取って「どうぞ」と奧の部屋へ案内してくれました、

そこは畳の部屋で綺麗な布団に枕が二つ並べて置いて有りました

「あんた初めてなのね」と言いながら私の服を脱がせに掛かりました、

私はまるで電気の切れたロボットの様になすがままに成っていました。

 私を裸にしてから自分の浴衣を肩から落とすと、

そこには私が未だ見た事のない大きい二つの乳房がピンと上に向いた

女の全裸が有りました、

呆然としている私の方へ近づいてきた彼女は自分のふくよかな胸の谷間に

私の頭を両手で抱えて押しつけました。

 何とも言いようのない懐かしい臭いが鼻孔一杯に広がりました、

母親の乳を飲んでいた幼い頃の臭いの様で懐かしさが一杯でした、

そのうち二人は抱き合ったまま布団の上に倒れました、

目の前がピンク色に染まった様で意識していないのに体に力が漲ぎってきました。

 それからの数十分は「夢か現か幻か」と言われる様な状態で、

その夜る私は初めて「男」に成りました、気が付くと丸顔のお姉さんの腕枕で

寝ていた様で起きあがろうとすると、

又お姉さんに後ろから抱きしめられてそのうち胸の谷間で深い眠りに落ちて

いきました。朝バスで現場へ帰ると鳶の親方が何にも言わず私の顔を見て

ニヤリと笑いました、

現場で作業打ち合わせをしていた私の近くから人がいなくなると

「二人で酒を飲んで酔いつぶれた事に成っている、家内には黙っていろよ、

次の給料日に又連れて行ってやるから」と小声で言って離れていきました、

親父さんも昨夜は帰って居なかったんだな、奥さんには私が酔いつぶれたので

介抱していたと言うことにしているらしいと察することが出来ました。

 

 次の給料日が来るのが待ち遠しかったのを今も良く覚えています、

当日鳶の奥さんに見送られて二人はバスで出発しました、

今日は遅くても帰っておかないと明日の仕事の段取りが悪くなるからと言われ

ていました。林崎に到着して部屋に上がった私には先日の丸顔の可愛い

お姉さんが付いてくれました、一件落着してお姉さんに抱かれて眠っていると

「オイ起きてるか、もう帰るぞ」と親方の声が聞こえて来たので飛び起きて

用意をして二人でバス停へ走りましたが、

すでに最終のバスは発車していて、もう鳥ヶ丸へ行くバスはありませんでした。

 親方と二人で鳴門の駅前まで歩いてトラックの便乗を「堂の浦」まで貰い、

それから山越えで「日生出湾」まで行き海沿いを歩いて

「櫛木」へ着いた頃にはすでに日が変わっていました、

エネルギーを消失している所へ親方は酒が入っていたので疲れも早く

海岸の網小屋の中に入って二人で横に成りましたが親方はタバコに

火をつけておいしそうに吸っていました。

 私もいつの間にか眠ってしまい、

凄く息苦しく成ってきたので「はっと」気が付き目を開けると

網小屋の中は煙が一杯充満していて網が可成りの勢いで火を噴いていました、

大火事に成ってきました二人は命からがら山に走り上がり隠れて状況を見て

いました。

 やがて半鐘がなり出し消防自動車も数台集合して放水を始めました、

ほとんど丸焼けの状態で消火が完了しましたが、

警察も駆けつけてきたので私たちは山を下りて逃げるわけにも行かず

二人は息を潜めて火事の現場から人がいなくなるまで待っていました。

 翌朝、二人で新聞を見ましたが「網小屋が小火」という小さい記事だけ

だったので、胸をなで下ろしこれは二人の秘密として密封する事にしました、

それからは、誰も知らない二人だけの男同士の秘密が共有できた様な

感じがして親密感が一段と深くなりました。

 

 父親が現場へ出る前に「男に成ってこい」と言われたことが思い出され、

意味は若干違うかも知れないが、生まれて初めて男に成った記念すべき

現場でありました。

 

 



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