誕生から高校時代まで 成長の記録-01

幼少の記憶

幼少の記憶

 

 私の記憶の中で一番古いものといえば、

甘酸っぱいような母親の乳房の片方を口に含んで一生懸命に吸いながら、

もう一方の乳房を片手で誰かが取りにくるのを防ぐかのように必死に握りしめて、

白いたわわな母の乳房がどうしても手に収まら無くて母親の乳を吸いながら、

何時ももう一方の乳房を誰かが触ってこないか横目で眺めていた記憶が

とぎれとぎれながら浮かんできます。

 

 母が健在の頃聞いた話では1歳を過ぎてもまだ母の乳房を離さなかったと聞いていますから、

多分生まれて1歳半過から2歳位の頃の記憶が私の中では一番古いような気がします。
 

 すぐ下の妹が 生まれて私は母の乳房を吸えなくなって、

何時も祖母の乳房を代わりに口に含んでいたと聞いています、

妹に母を取られてしまった様な気持ちで何だか小さいながら切ない気持ちがあったように思われ、

かなり大きく成長した後も女の人の乳房にすごく惹かれていた記憶が有ります。
 
 私の記憶にある父親との一番古い出来事としては、

父親の自転車の後ろに乗って大京原に有った木製のコンニャク橋の上をカタカタと、

渡っている時下を見てあまりの怖さに自分で荷台から飛び降り、

その弾みで2mほど下の那賀川へ落ち父親が助け上げてくれるまでの間、

もがきながらかなりの水を飲んで溺れたことです、

それから間もなく父親は戦争に出て行きました、

だからそれからしばらくの間は父親との事は思い出せません。

 


    

父親との再会

 

 幼稚園に入ってしばらく経った頃、                            

一人でいる私のところに、

戦闘帽をかぶり足にはゲートルを巻いて、

背中には大きなズタ袋とアルミの鍋をぶら下げた見知らぬ男の人が

「お母さんはいるか」と言って立っていました。

 100メートルほど先の田で農作業している母を指差すと、

 私に「お前、見ぬ間に大きくなったナ」言いながら背中の荷物をそこに卸して

 ゆっくり周りを眺めながら母の方へ歩いて行きました。

  男の人が途中まで歩いて行った時農作業していた母親がその男の人に気づいて

立ち上がり、何か叫びながら急に男の人の方へ走り出しました、

 まるで映画の1シーンの様に抱き有っていた姿が今も瞼に浮かんできます、

これが戦争に行って無事に返ってきた父親と私との久しぶりの再会だったのです

 

 

 


 

貧しい幼少期

 

 貧しい農家での幼少期を過ごした私の記憶の一つに、

当時の農家では百姓の仕事が終わると夕飯を食べてから、

納屋で夫婦が手分けして父親はワラを使って細縄を作り、

母親は筵(むしろ)かカマスを毎晩のように作っていました。 

 その作業場の板壁に白墨でカタカナとひらがなで私の名字と名前が書いてあり、

私は眠る前に必ず作業場に父親を訪ねて、

その上を10回はなぞって父親が書いた手本の字からはみ出るとまたやり直しと、

字を書かされていた思い出がまざまざと残っています。

 きっと、読み書きソロバンと勉強してよい学校に入り、

親よりは楽な生活をしてほしいと言う親心で有ったのかも知れませんが、

その当時私は勉強が大嫌いでした。

 


 

 

アヒル艦隊 

 

 私を長男にして二男二女の五人の兄弟で、

貧しいながらも楽しく幸せな幼少期を過ごし、

記憶に残る思い出としては、

私の家は相当に貧乏で当時我が家には風呂が無かった事でした。

 

両親の後へ一番下の弟それから小さい順に

最後は長男の私がしんがりとして親子7人が1列に成って

2Kmほど離れた銭湯まで毎日のように歩いて通っていました。

 近くの人はその姿を見てまるでアヒルの

夫婦の後に続く子供のようだと言うことで、

「アヒル艦隊」と名付けていました。                                
 

 

 

                                            兄弟五人が揃って写って昭和28年海水浴
                                               前列右がJH5AVM/JA5CBB

 途中の散髪屋の親父さんは「今日もアヒル艦隊は元気かな」などと声を掛けて

ヒャカしていました。

 今から思えば父親と母親が五人の子供を暖かく包んで守ってくれて家族の一体感が有り、

物質的には裕福では無かったけれどとても幸せで心の通い合っていた時代でした。

 

 


小学生時代

 

 私の小学校時代は何の変哲もない、

どこにでもいる普通の子供だったと思います、

ただ、今に成って考えてみると当時の私の家庭は他の家庭とは若干変わっているものが有りました。

 それは、五人兄弟で育ってきた私たちにとって、

ある時、隣のおばちゃんからリンゴを6個もらったことが有りましたが、

父親が五人に一個づつ手渡してくれ、余った一個を私に黙って差し出しました。

 それを見た一番下の幼い弟が「あれが欲しいと」だだをこねむずかりましたが、

その時父親は顔色も変えずに私に食べろと二個のリンゴをくれました

「何で」と訝る私に、父親はまだ小さい兄弟たちをそこに座らせて話しだしました。


 「お父さんやお母さんは、お前たちが元気で大きくなり、

お嫁さんを貰いそれぞれに子供ができて、

その子が大きく成長するまで、一緒に生きて居たいといつも思っている、

それでもお父さんやお母さんがどんなにそう思っていても、

生き物である以上人間はいつどこでどうなるか解らないんだよ。

 もし明日お父さんとお母さんが死んでしまったらお前たちはどうする、

どうやってご飯を食べて行く」、と五人の兄弟の顔を見渡しながら語りかけてきました。
 

 私は一瞬どうしょうと思い、

すぐ下の妹の顔を見ると正座して聞いていた妹の膝に置いた手の甲に涙が

大きな粒に成って落ちていました、

それを見ても父親は話を続け私に語りかけてきました。

 「そう成ったら四人の小さい弟妹の世話はお前が見て行かなあかんぞ、

お前が食べたいものが有ってもその時には辛抱して幼い弟妹たちに食べさせてやってくれ、

お前が幾らひもじいても弟妹には腹いっぱい食べさせてやることが、

長男として生まれたお前の役目だ、

解ったな」と言いながら四人の弟妹たちを見渡しました。

 「そう成ったらお前たちが頼れるのは兄ちゃんだけだから、

兄ちゃんはお父さんやお母さんの代わりをして自分が幾ら腹が空いていても、

お前たちに食べさせてくれるんだぞ、

だから、父さんや母さんが元気な今は兄ちゃんに一つ余計にやっておく、

いいか」と言って四人の顔を見廻しました。

 小さい兄弟妹たちは黙って頷きました、

それを見て父親はもじもじとして受け取っていなかった私の手に二個のリンゴを

置いて立ち上がった、

私は貰ったリンゴの一つを一番下の弟(JH5AVM)に黙って差し出しました。

 弟がうれしそうに「兄ちゃん有り難うと」大きな声を出した、

その声に立ち去りかけていた父親が振り返りそれを見て

今まで見せた事が無い様な嬉しそうな笑顔を見せて部屋を出て行きました。
 

 まだ当時は小学生で幼かった私も

自分の弟妹というものに一体感と長男としてどうして行くべきかという考えが、

その時芽生え始めて来た感じがしました、

正直なところ私の家はちょっと変わっているなと思ったのもこの頃であります

 

 


 

小学生の喧嘩

 

 小学校を卒業する年の正月であったと思いますが、

隣町の年頃の似通った生徒二人と私とでけんかに成り私はボコボコにやられ、

目の縁はコプラの目のようにパンチが入って黒いワッカができていました。

 情けなくて泣いた顔は多分グチャグチャだったのだと思います、

家に帰った私の顔を見た父親はすぐに「どうしたんじゃ」と問いつめてきました。

 いろいろと喧嘩の原因から説明する私の言葉を終わりまで聞かずに、

父親が「理由はどうであれ男が喧嘩に踏み切って負けて泣いて帰るとは何じゃ」

と大きな声で怒鳴りながら私の首を持って家の玄関から外に突き出しました。 

 玄関に仁王立ちに成った父親が私を睨み付けながら

玄関脇に積んでいた燃料にする割り木の一本を掴んで差し出し「今からそいつの家に

行っておまえを殴った、そいつの頭をかち割ってこい、

それまで家に帰ってくるな」押し出されました、

喧嘩に負けた相手の家は知っていましたが、

さりとて今から頭をかち割ることなど、

とても出来るものでは有りませんでした。

 真っ暗に日も暮れた正月の寒い夜の時間を家からかなり離れた田圃に積まれた

稲藁のグルにもたれて、何時間も時間待ちをしました、

遠くに自分の家の薄明かりがチカチカと瞬いている様に見えました。

 今頃みんな飯食っているのかナーと思いながら心細かった事を覚えています、

かなりの時間が経過した後「さもやり付けてきた」様な顔をして家に入って行きました。

 父親は飯も食わずに待っていて、

喧嘩の事は何も聞かずに「寒かっただろう、

飯にせんか」と言って一緒に夕飯を食べ始めました、

父親は食べながら私に語りかけてきました「弟妹を守ると言う事が解っているのか、

自分がどんなにやられても長男は弟妹を守り通さんといかんぞ、

それがちょっと位たたかれたと言って泣いて帰るようではどうにも成らん、

男はもっと強う成れ」と優しいながら強い語気で気合いを入れられ、

私は思わず頷いてしまいました、

その時は勉強より強くなる方が楽かなと思っていたのです。

 


 

中学生と鉱石ラジオ

 

 中学校に入学し、二年生に成った春のことだったと思います、

当時はまだテレビのある家が私の住む町で3〜4軒で有ったと記憶しています当然、

私の家にはテレビは無く「並4」と呼ばれていたラジオが一台有るだけで、

家族みんなで耳を傾けて放送を聞いていました。

 中学に成ってくると独立心も出てきて親と違った放送を聞きたかったのですが、

父親を中心にがっちりと固められた家庭ですから、

そんな無理が通るはずもありません、

それならと毎月親から貰っていた少しの小遣いを貯めて鉱石ラジオのキットを購入し組み立てて

自分の好きな番組を聞いてやろうと考えて組み立てて見たものの、

放送がかすかに聞こえるのだがそれこそ遠くで蚊が飛んでいるような音でしか聞こえてこず

番組を聞くために集中して疲れてしまう毎日でした。
 

 そのころ私の中学校では丁度大学を卒業して赴任してこられたS先生が理科を

担当していましたので、学校で直接話すのも恥ずかしい気がして手紙で先生の住所へ

鉱石ラジオが上手く働かないので教えて欲しい旨の

お願いの手紙を出しました、

手紙を出してから何日も日がたちその先生とも顔を合わしているのだけれど、

なんの反応もなくやはりこんな相談には乗ってくれないのかと半ば諦めていた、

ある日私の家へS先生が自転車に乗って「いるか」と言って訪ねてきました。

 先生は「俺もちょっと勉強してから来たので遅くなってしまつたヨ」と

言いながら鉱石ラジオのキットをバラシ始めました、

すごくざっくばらんに色々と話しながら

「理科というのは作って触って考えて、実験しながら勉強していくんだよナ」と

笑いながら語りかけてきました、

私は内心「理科のためにやってるのじゃない、

自分が好きなラジオ番組を聞きたいためなんだ」と思いながら、

先生の言葉に頷いていました。
 

 結局その日にはなんの変化もなく良くなりませんでした、

次の日にもS先生は自転車に乗って私の家にやってきました、

テスターを出してアンテナから次々と何か測定してましたが、

当時の私の知識では解るはずもありません、

そのうち先生は「これしかないなと言って検波回路の鉱石のケースを

開けて3〜4ミリの石を取り出し、

それを金槌でカチンと割ってしまいました、

私のなけなしの小遣いで買ったものを「何をするんだ」心の中で叫び私は顔色が

変わるのが自分で解りました。

 少しだけかけたその石をスプリングに挟んで元通り組み直しスイッチを

入れ試験していましたが、

なんにも言わずに鉱石ラジオに繋がれたレシーバーを私に差し出しました、

それを耳にかけて見ると耳が痛いくらい大きな声で放送が聞こえています、

「先生ありがとう」と思わず大声を出してしまいました。
 

 後に成って解った事なのですがゲルマニューム鉱石の先端部がとがっていないと

検波能力が低下して駄目だったみたいで、

鉱石の先端を壊すことによって鉱石の突起が鋭くなり検波能力が増加して大きく

鳴りだしたのだと思います、

この鉱石ラジオで当時流行っていた「紅孔雀」「オテナの塔」など後になって東千代之介、

中村錦之介、主演で映画化された番組を必死で聞いて家に何台もラジオがあり

自分のラジヲを持ち番組を聞いてた連中と対等に話題が持てて結構楽しい一時代が送れました。
 

 こんな事が有ってからS先生の教える理科の学科がすごく好きになり、

ほかの勉強はしなくても理科の科目の予習復習の勉強だけはしていきました、

S先生も信頼してくれて、本当に良い関係で中学を卒業することが出来ました、

このことが後々のアマチュア無線や強いては現在仕事としてやっている

非破壊検査の先端技術の勉強や考え方の基礎を築いていたので無いかと先生に

感謝しています、

S先生と中学校で出会いの有ったことが、

有る意味でその後の自分の物事に対する考え方を変えて今に至っていると思うと、

中学校時代にS先生と出会えた事に幸せと不思議さを感じています。
 

 


工業高校へ入学            

 
 

 

 

 私が工業高校へ進んだ時代には徳島県で土木課程が有る高校は県内1校でした、

県内各地の中学校より結構優秀な連中が集まって入学して来てました。

 私と同じ中学からは私を入れて3人が入学しまし た、

高校時代は今から思えば最高に楽しかったし多くの友人を作る事が出来て

始めて幼いながら世間に一歩足を踏み出した時期であったと思います。

 結構高校時代はまじめで勉強もしていた記憶があります、

小さい時から親が万一の時は残った四人の弟妹の面倒見て行く事か長男に生まれた私の

役目の一つと教えられていました。

 それは又、極当たり前の様に思っていましたから、

一生懸命に勉強して少しでも良い会社に就職し高い給料を貰って親や弟妹を助けたいと

真剣に考えていました。
 

 工業高校へ入学した一年は自分で言うのがおかしい位真面目な学生生活を送って

いたと 思っています、

当時の貧乏な百姓は朝早くから夜遅くまで働くのが常でした。

 そんなことで私は早くから父親や母親と一緒に起きて時間を持て余しぎみでした、

その時代のほとんどの学生やサラリーマンは汽車で通学通勤をしていました。

 私もご多分に漏れず羽ノ浦駅から工業高校のある佐古駅まで汽車で通学しました、

確か朝の7時10分羽ノ浦駅発であったと思います。

 朝は6時には起きて家族と朝食を取っていましたから時間を持て余し家でごろごろ

していると親父の雷がいつ落ちるか解らないので、

毎日の様に6時20分頃には羽ノ浦駅へ着いて駅舎の椅子で友達を待つのが日課になっていました。

 入学して一月ほどたった頃であったと思います、

この日は朝の5時に目が覚めて布団の中でウツラウツラしていた時、

隣の部屋から父親と母親の会話が聞こえてきました、

たぶん私が起きているとは気が付いていなかったのだと思います。

 「教材も値段が高いし、我々の今の稼ぎでは5人が学校へ行き出すと、

親は何も食べずに痩せ衰えてて死ぬしかないねー」と母親の声

すると父親が「農閑期に土方にでも行って現金収入を増さんとな」

「こないだ見た映画みたいに、今は平平凡凡でも何時か親の心を知って

 馬喰一代 みたいに成ってくれたら親はどれだけ嬉しいだろう」と母親の悲しそうにも

思える声が聞こえてきました。

 それは工業高校への入学が決まった時お祝いに父と母、

私たち兄弟5人で「羽ノ浦東映」へ三船敏郎主演の「馬喰一代」と言う映画を見に連れて

行ってくれた事が有りました、

その映画のことを言っているのだと想像が付きました。

 何十年も前に見た映画の筋書きはそれほど確かでは無いが、

飲んだくれの馬喰の家族の葛藤を描いた、

妻と息子が貧乏に耐えて苦労に苦労を重ねて最後は息子が良い大学を出て

幸せに成っていくという映画だったと思うが最後には主人公の三船敏郎は死んでしまったと記憶

しています。映画館の中では、私は心の中で「そんなに世の中巧く行くものか」と冷めた目で見ていたが、

父親と母親は辺り構わずに声を出して泣いていました、

それを私に当て込んで夢を描いているのだろうと思いました、

将来は私が偉く成って家を助け家計の足しにと願っているのかなとその時は思いました。

 喧嘩して負けたら「相手の頭かち割って来い」と追い出す様な躾を親がしておいて、

映画通りに行くものかと心の中で叫びながらも、

これだけ貧乏で育ったら下下の兄弟のためにもガンバつて早く卒業して良い会社に入り親を

楽させてやろうと思いました。

 親の気持ちを察して、その翌日からは家から持ってきた竹箒で駅の周囲の清掃を

始めてみました、

何で親の話を盗み聞きしてそんな行動に出たのか今考えても自分でも良く解らないが、

通学の度に掃除を8月の夏休みまで続けました。

 夏休み前には当時の羽ノ浦駅の駅長から表彰してもらう事が出来て、

親に誇らしげにもらった商品と表彰状を見せると、

母親は嬉しそうに「よかったネー」と喜んでくれました、

父親は私に近づいてきてグリグリ坊主の私の頭を大きな手で2〜3度撫でて何も言わずに

立ち去っていきました。

 勉強も真面目に予習復習を繰り返して1学期の成績は45人中2番という成績を

取ることができました、

「俺だってやれば出来るんだ」と自信が大きくなり、

2学期からはもっと頑張ろうと夏休みに入った。

 ところが世の中そんなには甘くは無かったのです、

2学期が始まると友達も多くなりいつの間にか駅の掃除も止めてしまい、

成績も次第に急降下を開始しだしたのです。

     


  

高校時代の親友

 

 高校一年の冬休みで有ったと思いますが、

私の家のすぐ近所に小松島高校に通っている同年のH君が兄貴の家へ

下宿して来ました。

 ひょんな事から友達になり意気投合して彼も同じ汽車通学でしたが南小松島駅

で降りるので丁度私が通学している距離の1/2位でした。

 毎日の様に朝は私がH君の家に立ち寄りH君の自転車の

後ろに跨って駅まで一緒に行ってました。

 当時の汽車は蒸気機関車で牽引し「C-51」というデカイ機関車でした。

 客車は薄黒くすすけた今の客車からは想像も出来ないような

堅い椅子の大きな車両で私が乗る駅からは乗降客が結構多かったので

2両連結し阿南(富岡)から6両で来た汽車がこの駅から8両に

増結されてました。

 そのおかげで私たちは何時も楽に席に座る事が出来ていましたが、

ある時から牛や馬を運ぶ貨車が一両必ず増結車両の前に牽引されているのを発見しました。

 その貨車の中には阿南方面から徳島え通勤する社会人や若い女性、

女学生が立ったまますし詰め状態で乗っているのを二人が見つけました。

 それ以後は増結客車に乗らず立ったままのすし詰め車両に乗って出来るだけ若い

女性の横に二人で乗る事にしました、

高校二年に成ってもまだ女性という物を知らない私たち二人は汽車が揺れるたびに

隣の女性と体が接触し、

その都度発生する何とも言えないかぐわしい臭いを嗅いでその日一日を

幸せに感じていた様に思います。学校が終わって地元へ帰ってくると、

必ずと言うくらいH君の家で一緒に遊ぶか、私の家で泊まって朝また一緒に学校へ行くか、

まるで兄弟のように高校時代の2年間は過ごし、

今考えるとそれこそ何でも無いような勉強の事、

汽車通学で見た女の人の事など必死に成って相談したり二人で一緒に悩んだりしていたように思います。

 何時も朝の通勤で貨車の中で顔を合わせていたかわいい女学生が乗ってこなくなると、

病気かな、風邪が流行ってるから風邪で熱を出して休すんでるのかナと想像しながら住所も

名前も知らない、

ただ貨車の中で目が合うと頭をチョコッと下げて黙礼するくらいの仲なのに、

学校での授業中も頭の片隅から離れなかった事を思い出します。

 今の自分に比べてなんだか純真で汚れのまだ少ない少年で有ったような気がします。

 県内各地から集まってきた連中は、

それぞれの個性が有り最初の一年生の一学期は何だかギクシャクしている感じでしたが、

二学期に成ると男子ばかりの学校特有の連帯感が生まれ、

すごくまとまって気持ちよく付き合える連中ばかりで、

今から思い出しても楽しい思い出はそれこそ高校時代にすごく多くありました。

 その時代私の家庭はまだ物質的にはちっとも裕福では有りませんでした、

しかし私たち兄弟五人はそれが悲しいとか,人がうらやましいとか思った事はただの一度

も有りませんでした。

 それはまさに父親も母親も子供を育てるために必死で働き、

何時も私たち五人の子供のことが中心で生活が回っていたからかも知れません。

 兄弟五人は何時も父親と母親の汗一杯の背中を見て育って来たので家族が一致団結していました、

そんな貧しい中でも私の友達が家に遊びに来たときには、

何時もは出てこない様なご馳走を出して本当に歓待してくれていました。
 

 

 ある時父が私に「おまえ今友達と言える連れは何人いるのか」と聞いてきました、

私が考えながら黙っていると、

父が「貧乏人の家に生まれたお前の宝物はお前たち五人の兄弟と友達の数だヨ

駆け引き無しに心から付き合うことが肝心で、

友達にご馳走をするなら出来るだけのご馳走を出し中途半端な事をしては人間と

しての底を見られるぞ」

「明日食べるものが無くても精一杯の歓待をする事が付き合いの秘訣で

友達を多く作れることに成る」

それがこれから貧乏人のおまえが生きて行く上の宝物に成るんだと言ました。

 私の家は、遊びに来た友達には何時も父親や母親が貧しいながら精一杯のご馳走で

もてなしてくれました、

当時は日本の国も敗戦から立ち上がりつつ努力はしていましたが、

まだまだ私たちには裕福とは言えない時代でありました。

 私の家に来れば特別なもてなしも出来なかったけれど百姓の家ですから、

腹一杯真っ白のご飯が遠慮なく食べられて、

貧しいながら精一杯のご馳走が出ると言うことで友達もたくさん遊びに来る様になりました。

 そんなことで結構多くの友達も出来て私の宝物が少しずつ増えて行った楽しい高校時代でした、

もう一度あの時代に戻ることが出来るなら戻って見たい気がする今日この頃です。

 


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