家庭教育の問題点 | 高齢者の所在不明問題 | |
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家庭教育・躾について
私の家は安全道路という歩行者専用の巾5m程の道路の脇で果樹菜園をしております。 先日5、6歳の男の子を連れた若いお母さんが歩いてい来ました、私の畑の真っ赤に熟したトマトを見つけて、 その子供は私の畑に無言で入ってきてトマトを2個手早くもぎ取りました、私が「こらー」と大声で怒ると子供は トマトを持ったまま母親の所へ逃げていきました。
私の畑へ転がし込みました、そして一言の謝罪もないままに立ち去って行こうとしました。 あまりの理不尽さに「待てーそれはないだろう、人の物を黙ってもぎ取り叔父さんが怖いから戻しておくなんて、 子供にもう少しきっちりとした躾をしておけ」と言うと、母親は一言も喋らず黙って 睨み付けて立ち去っていきました。
その日一日暗い気持ちで過ごしました。
高齢者所在不明問題に付いて
昨今、100歳以上の高齢者の所在が不明で親族も高齢者の所在が不明のままに30年経っているとか、 40年経っていると言う問題が全国的に問題に成り日夜新聞テレビを賑わしています。
死んでいるのかも解らないままに数十年が経過している、そんな事が許されて良いのだろうか、 悲しさより怒りが沸き上がってくる想いであります。
根本的には日本の教育の崩壊が原因で有ろうと思います、「自分に厳しく、他人に優しく」と数十年前子供の頃に 身をもって教えてくれた父や母の事が思い出されます、 「身体の小さい動物には優しさと哀れみを」と水溜まりでハヤの最後に例えて教えてくれた 父の顔が瞼に浮かびます(成長の記録ー2ー1)。 若い息子や娘が親の所在さえもおろそかにする事が許されるはずが有りません、 そのもの達も必ず歳は取っていきます、親をおろそかにしてきた事を子供はじっと見つめながら成長していると思います、 歳を取り老齢の域に達した時にはその子供が育ちながら見てきたように、親の所在は関係ないと 此こそ因果応報の輪廻の世界に入るのでは無いでしょうか。 、私は家族とは生活基盤の最小単位だと思っています、その家族の関係が破壊されていって、社会という団体生活が 上手く出来るはずも無いのではと心配しています。 今こそ地域のコミニティーや農村地帯での講組などで他人を優しく労る事の再教育が必要では有りませんか、 過去の教育が可笑しく成りその時代に育って来た人が、現在成長して親に成り子供を育てています、早い時点での 道徳教育とか最低でも家族を愛する事そして国を愛する事を教えなければ明るい日本の将来は無いのかも知れません。
嬉しかった事「他人の子供への躾」 していました。 私の処は小規模の栽培ですから金時芋も人力で汗をかきながら掘っています、突然に見知らぬ5,6才位の男の子が 一人で畑に入ってきて「おじさん芋を下さい」と言ってきました、私は驚きながら「良いよ、何個欲しいんだ」と聞く と、その子供が「僕と妹の分2個下さい」と神妙な顔で答えました。
12,13個くらい有ったと思います、子供は満身の笑顔で「有り難う」と大きな声で言いながら急いで帰って行きました。 翌日も同じ畑で芋掘りをしていると、昨日の子供が 「昨日は有り難うございました」言って畑の中に入ってきました、 手には一袋の御菓子を持って「此食べて下さい、妹と二人の小遣いで買って来ました」と言いながら私に差し出し ました、少ないであろう子供の小遣いの中から私にと気を使い御菓子を買って持ってきてくれた気持ちが、 過ごく嬉しくて胸が一瞬熱くなりました、突き返すのも悪いと思い「有り難うおじさんは此の御菓子大好きなんだ」と 言うと何とも言えない嬉しそうな顔をして微笑んでいました。
それを聞いてあの時叱って置いて良かったなとつくづく思いました、他人の子供を叱るという事は難しいものですが、 思い起こせば昔私たちが小さかった頃親たちは自分の子供、他人の子供の区別なく叱ったり、 褒めたり躾をしていたように思います、これからも私は他人の子供でも 「悪い事をすれば叱れる人」で有りたいと思いました。 思い出してもなんだか嬉しくて気持ちが豊かに成った一日でした。
父へ贈る言葉 JA5CHQ 日下 晴久
折から近くの小枝で鳴く蝉の声が一段と大きく聞こえる中、静かに黙祷していると、 あれから十年近い歳月が過ぎ去っていると言うのに、父が亡くなる数日前に私を枕元に呼び二人で 話し合った事が昨日の事のように思い出されてきました。
時々正気に戻るような状態の毎日が続いていました、近くの病院に入院していた父がベットの横に座った私に 「今回はもうダメと思う、長い間おまえには苦労掛けたな、本当に世話に成ったなぁー有り難う」と 正気なきれいな目で私を見ながら言いました。
「日本の国はどう成っているのだ、教育は滅茶苦茶だし、家族制度は崩壊し、個人が権利ばかりを主張するし、 日本の将来は本当に明るいのか」と大きな声で言って静かに目を閉じました。
「おい、国がどうなろうとも弟妹の事は頼むぞ、長男はいつまで経っても長男だからな困っている時には 弟妹には力を貸してやってくれ」としっかり私の目を見ながら言いました。
それは昭和20年代頃で当時の私の家は小さい貧乏な農家でした、五人の兄弟は物質的には決して 裕福では無かったけれども、私たちは汗一杯で一生懸命に働く父母の背中をいつも見ながら家族が一体感を 持って貧しいながら楽しい幸せな生活をおくっていました。
今に成って考えてみると当時の私の家庭は他の家庭とは若干変わっているものが有りました。
父親が五人に一個づつ手渡してくれ、余った一個を私に黙って差し出しました、それを見た一番下の幼い弟が 「あれが欲しいと」だだをこねむずかりましたが、 その時父親は顔色も変えずに私に食べろと二個のリンゴを手渡そうとしました「何で」と訝る私に、 父親はまだ小さい兄弟たちをそこに座らせて話しだしました。
その子が大きく成長するまで、一緒に生きて居たいといつも思っている、 それでもお父さんやお母さんがどんなにそう思っていても、生き物である以上人間はいつどこでどうなるか 解らないんだよ。
と五人の兄弟の顔を見渡しながら諭すように語りかけてきました。
涙が大きな粒に成って落ちていました、それを見ても父親は話を続け私に語りかけてきました。
お前が食べたいものが有ってもその時には辛抱して幼い弟妹たちに食べさせてやってくれ、 お前が幾らひもじいても弟妹たちには腹いっぱい食べさせてやることが、長男として生まれたお前の役目だ、 解ったな」と言いながら四人の弟妹たちを見渡しました。
代わりをして自分が幾ら腹が空いていても、お前たちに食べさせてくれるんだぞ、 だから、父さんや母さんが元気な今は兄ちゃんに一つ余計にやっておく、いいか」と 言って四人の顔を見廻しました、小さい弟妹たちは黙って頷きました、 私は貰ったリンゴの一つを一番下の弟(JA5CBB/JH5AVM)に黙って差し出しました。 弟がうれしそうに「兄ちゃん有り難うと」大きな声で言いました、 その声に立ち去りかけていた父親が振り返りそれを見て今まで見せた事が無い様な嬉しそうな 笑顔を見せて部屋を出て行きました。
言う考えがその時芽生え始めた記憶があります。 戦後間もない時代、国自体も復興の最中で家庭も貧しく先行きも見えない苦しい時代に 貧乏の子沢山で両親がまさかの時を考えて弟妹たちの行く末を小さい私に託す以外方法が 無かったのかも知れません。
「心配するな、兄弟仲良く面倒見て行くからな、心配せずにゆっくり休め」と 今まで両親に使った事が無いような大人ぶった言葉で囁きました、 父は小さく2,3度首を動かせてニツコリと笑って安心したのか眠りにつきました、 それから二日して父は苦しむことなく静かに黄泉の国へ旅立っていきました。
「読む事と書く事を徹底して教えられ、貧乏人には家族や友達が最大の宝、嘘を付くな人を騙すな、 自分がした事には責任を持て、弟妹に対しては無償の愛で面倒を見ろ、 家族は大家族でどんな事でも話し合い助け合う事、両親や弟妹を愛し、友達を愛し、 国を日の丸を愛する男になれ」と育てられて来ました。
七割方位は父の教えに背くことなく生きてこられたかなと思っています。
又貴方の子供として生まれて来たい」と言う言葉を墓前に贈り、 しばしの別れと父が穏やかに眠る墓所を跡にしました。 私たちはもう一度敗戦から立ち上がってきた昭和の時代の初心に返って 本当の意味での幸せな家庭を作って行きたいと強く思いました。 平成23年9月23日 彼岸の中日墓参して心新たに
原点・俳句との出会い 阿南中央ロータリークラブ「阿南中央文芸」掲載
先日会社時代の沢山の資料を整理破棄しようと大掃除をしていた時、沢山の資料の中から、 佐坂鳴渦著「阿波」という句集を発見しました。
散文でも、詩でも作り「阿南中央文芸」へ投稿して欲しいと誘われて、 基本も知らない思いつくままの下手な俳句を投稿させて貰っています、私と俳句の出会いの原点は、 昭和34年に工業高校土木科を卒業して入社した会社の当時の上司であった土木部長が佐坂久男さん、 俳号佐坂鳴渦さんでした、先ほどの句集「阿波」を著した人なのです。
佐坂部長も通勤列車の都合で同じ時間に会社に出社されていました、字を書く事の下手であった私に、 佐坂部長は朝の1時間、ぶらぶらせずに字の練習をしなさい、 私が見てあげると言ってそれからは朝の1時間、毎日毎日、佐坂部長と二人で字の特訓練習に励みました。
その中に出てくる俳句の文字を一生懸命に練習していました、 その内次第に俳句を作って見たいと言う気持ちが強くなり、佐坂鳴渦先生に添削して貰って「春燈」に 二〜三度投稿した記憶が有ります、それからわずか三ヶ月間ほどの期間で土木の建設現場と言う「戦場」に 駆り出されて爾来四十数年間に亘建設業に携わり俳句と言うものを忘れていました。
又、40数年前に俳句を少し教えて頂いた佐坂さんがこれ程俳句にに見識を持った人とは思っていませんでした、 入社した会社の上司で俳句が好きな人位にしか思っていなかったし、 私も当時はそれ程俳句が好きでも有りませんでした。
この工事は昭和44年〜46年頃私が担当していたのでその頃に発刊し私に頂いたものと思います、 でもこれを読んだ記憶は有りませんでしたが、私も七十歳近い年に成った現在、 今回時間をかけて熟読すると何だか身体が熱く成り心が震える様な感激を覚えました、
それからの老後を亡き奥さんを偲びながら生活されていた様子が推察されて心が切なく成ってきます。
物質的には幸せであっても口に出せない様な寂しさや孤独感を詠った句もあり、 もう少し早くこの句集「阿波」を読んで居れば、 又 かまける事無く現場へ出ても俳句を作り続けていればと後悔する事しきりでした。
皆様方にお世話に成りながら、真摯な気持ちで俳句作りに取り組んで行きたいと思っております。
私の第2の故郷 日下晴久「阿南中央文芸」より
私は工業高校を出るまでは羽ノ浦町の貧乏百姓の長男として育って来ました、 それまでは良しに付け悪しきに付け私の唯一の故郷は羽ノ浦町で有りました。
しかし高度成長の時代の波と共に生活環境も変わり現在では近郷のベツトタウン化し人口も増えて、 近隣には多種多様の人達と共に生活するように成ってきました、 確かに私たちが小さかった頃より生活水準も上がり、 貧乏の苦しさも若干は楽に成ってきたのも事実と思います。
生活の便利さ、裕福さと反対に失っていった大切な事、それは人と人との付き合い、 助け合いの心ではないかと思います、 そんな昔の良かった近所付き合いを懐かしむのは私の我が儘なのでしょうか。
建築屋さんと変わり土木屋は山奥や辺鄙な所での仕事が多く各地方の山間僻地を亘ってきたと入っても 過言では無いと思います。
昭和42年から此処で約3年間「西宇トンネル」の施工に携わりました、 決して裕福と言える村では無かったと思いますが、私の心に今も強く残る想い出の一つは そこに住んでいる人々の優しさ、人を思いやる心の暖かさ、それと四季折々の自然の美しさ、 特に那賀川を流れる水の美しさ、この川は流れ流れて私の故郷羽ノ浦へも流れてきます、 当時は未だ自然のままで開発による自然破壊もそれほど進んでは居ませんでした、当時、 私は26才の若造でしたが村で出会う人々は気安く挨拶をしてくれました、 まるで昔からの木頭村の住人の様に接してくれました。
2時間半程掛かっていました、まさに陸の孤島と言われるような道路事情でした、 大阪へは高速船で3時間、東京へは飛行機で1時間少々それから考えると同じ徳島県内で、まして私の育った 羽ノ浦と同じ那賀郡で有りながら大変な場所でした、 その頃は未だ林業の衰退は今程でなく林業で生計を立てている人が多かったと記憶しています、 山間僻地のせいか、村人の結びつきは強く団結していたと思います。
19才の村の娘さんと結婚しました、現在の私の女房であります、 そんな事で木頭村は私の第2の故郷として女房と共に時々訪れていますが、 あれから数十年経った今も人々は優しく変わることなく接してくれます、心の安らぐ私の第2の故郷に成っています。
受注して仕事をしております、特に徳島県の祖谷川水系には数ケ所の水力発電所が有り良く調査に行っています、 奥祖谷は木頭村と剣山山系を挟んだ対面の位置に有りどちらも山間僻地と言っても可笑しくない状況に有ります、 木頭村よりも祖谷地方は産業が無く過疎が進んでいるように思えお年寄りも結構多いと思いますが、 そこに住む人々は優しく心暖かい人が多いように思います、環境が厳しく山間僻地ではお互いに人と人との つながりは深く、都会で豊かな生活をしている人よりも、生活は豊かで無いかも知れないけれど、 何事に付けても隣の人と助け合わなければ生活できない地方の人達が優しくなれるのではないでしょうか。
その間は東祖谷の民宿で泊まりそこから各現場へ調査に行っています、 私は「奥祖谷旅館」という民宿を利用していますが美人の女将が美味しい食事を作ってくれて職員一同喜んでいます、 それほど上手を言ってもてなしをしてくれると言う事でも無いのですが、何だか一緒に話すだけでも暖かさを感じ、 お客に対する真心の感じられる民宿です。 食事のおいしさは四国内の色々な民宿を利用しますが何処にも負けない抜群の美味しさで職員からも好評を 得ています、私たちの調査は発電用の水位が下がった冬場しか仕事が無く雪の深い冬場しか 祖谷地方へは行っていませんが、木頭と並んで私の第2の故郷と思っている祖谷地方にも 夏の観光シーズンに女房と二人で是非訪ねて祖谷温泉に浸かりながら民謡で有名な「祖谷のこひき歌」でも 聞いてのんびりしてみたいものだと思っております。
ハレー彗星の様に過ぎ去った
皆さんも宝くじを買う事が有ると思うのですが、私も例に漏れず時に就け宝くじを買っては叶わぬ願いに夢を掛けて楽 ました、夢を見る事に金は掛かりませんから余りの金70,000,000円中より妻と子供二人にそれぞれ10,000,000円づつ
プレゼントして残金40,000,000円を貯金しておく予定を組んでいました。 から立ち上がり、大声で「当たったと叫びました、一億円が当選したと思ったけで体が震える思いがしてきました。 息子の大声を聞いた社員や付近に居た人が駆け寄って来ました、暫くして息子が何も言わずに力が抜けたように椅子に 座り込んでいきました。 下一桁だけ違って居ると新聞を指す息子の指が小刻みに震えていました。
問題の宝くじを撮影したものです、2等の1億円の当選番号は、 地球に近づいて通り過ぎて行ったように、それからも同じよう に今年まで宝くじを買い続けていますが 、まるで番号が近づく こともなく、くじ運は通り過ぎてしまったような気がして 成りません、私が黄泉の国へ旅立つまでにハレー彗星はもう 一度私の処へ近づいて幸せをもたらせてくれるのでしょうか。
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